見出し画像

「乃木坂46・北野日奈子」で40万字:何を書き、何が見えたか

 ブログ「坂道雑文帳」で長期にわたって書き続けてきたシリーズ記事「その手でつかんだ光 (乃木坂46・北野日奈子の“3320日”とそれから)」が、このたびようやく完結しました。コンセプトとしては「乃木坂46・北野日奈子」のグループでのキャリアを、全期間を射程において振り返りたい、というもので、構想を始めたのは卒業発表直後、資料を整理し始めたのが卒業前後のGW中だったと記憶しています。そこから実際に書き始めて、1年半ほどを費やしたということになります。
 時間をかけすぎてしまったな、としみじみ思う一方、間を空けてしまった期間もありつつ、この間ずっとライフワークのように北野さんのことを考えてこられたのは、幸せなことだったな、と感じています。

 このnoteでも、ことあるごとにブログについて、あるいはこのシリーズ記事について宣伝してきたところですが、本稿では全10回の記事について個別に振り返り、全体を概観した上で、「書いてみてどうだったか?」という感想や、いま考えていることについて記していこう、という感じです。
 (まあ、いまからぜんぶ読んでやるぞ! という奇特な方はおられないと思うので、ダイジェストだけでも……というような気持ちです。)

 なお、「40万字」とは本シリーズ全体の文字数をざっくり足し合わせた数字です。WordPressのコンソールに表示されている文字数を足したら45万字くらいになり、基準はよくわからないが少し多めに出る傾向がある気がするのでやや割り引いて「40万字」とした、という程度にすぎません。
 長ければよいというものではないし(いたずらに長いことはむしろ悪でもありましょう)、引用も多いため、筆者としては「そんなに書いたつもりはない」という感覚があることも申し添えておきます。これ以外にも、自分が世に出した文章を文字数で測ろうとしてしまうところが筆者にはあって、悪い癖だなと思うのですが、ひとつの目安、あるいは取り組んできたものの足跡として、今回も用いてしまっています。

[1]家族への信頼と愛情

 北野さんは家族と仲が良く、愛犬・チップを溺愛している、というのは著名な事実であったと思います。この回ではそうした点を中心としつつ、加入前の“生い立ち”について書いたような形になりました。
 ご本人がたびたび言及するばかりでなく、家族全員で雑誌のアンケート取材を受けたこともあり、参考になる語りは多かったように思います。そのなかで印象に残っているのは、お父さん・お兄さん/お母さん・妹さんという形で、北野さんのアイドル活動についてやや対照的な態度をとる場面が多くあったようである、という点です。家族の絆をベースとしつつ、そこにそうした両面があったことは、なんらかの意味があったように思えてなりません。
 チップについて、およびハムスターの「きみ」「しろみ」についてもこのなかで言及しています。動物愛護に携わりたい、という思いがあまりにも一貫していることに、改めて驚く部分もありました。

 加えて、これは触れるかどうか少し悩んだ覚えがあるのですが、ご本人がたびたび言及していたので書いたこととして、加入前の学生時代にいじめを受けていた、ということがありました。その時期を家族に支えられながら過ごしたというところも、彼女の一部分を形づくっているように見えました。
 特に1・2期生の乃木坂46には、何かに悩んでその場所にたどり着いた、というようなバックグラウンドをもつ(ことがキャラクター/ストーリーの一部として公に語られている)メンバーが散見されるような印象があり、そしてその印象は、現在はいくぶん軽減されているように思います。
 加入してくるメンバーの傾向が変わったのか、そうしたストーリーが好まれなくなったのかは、わかりません。ただ、悩みのない人生はありません。ひとりの人間の人生に完全性を求めることも、完全でない部分をことさらにあげつらうことも、最小限にしないとといけない、そうしてほしい、と思います。

 タイトル写真は北野さん出生の地・北海道小樽市の小樽運河です。この記事を出して以降、自分でも2回ほど訪れたので、本当は自分で撮った写真でつくり直したかったのですが、天候に恵まれなかったり、そんなにうまく撮れなかったりで、公開時のままいまに至っています。

[2]ポジションと向き合った日々

 北野さんの“乃木坂人生”を語るにあたり、ポジションの経緯を外すことはできません。自身でも「いちばん選抜とアンダーを行ったり来たりしたんじゃないかな。でも今考えると火付け役だったんじゃないかなと思うんです」(『FLASHスペシャル グラビアBEST』2022年初秋号 p.24)と振り返るように、北野さんをはじめとするボーダーライン上で動いていたメンバーによって、入れ替わりが少ない状況下でも選抜制度がいくぶんかは緊張感を保っていたように思います。
 その日々を終えたのちには「振り返ってみると、選抜のボーダーライン上でもがいていた時期を経験できたことはとても大きかったです」(『希望の方角』インタビュー)とも語りますが、選ばれなかった選抜発表のあとには泣きながら朝まで家族に話を聞いてもらっていたと、卒業コンサートでは語られてもいました。どこかのタイミングで北野さんの心が完全に折れてしまっていたら、グループの歩みはいくぶん変わっていたかもしれません。

 いまになってみてあえていうなら、北野さんはグループにとって重要な局面で「アンダーのポジションを託されていた」ようにも見えます。日本武道館公演の13th、アンダーライブでの永島聖羅卒業コンサートがあり、地方シリーズの端緒となった14th。アンダー曲「アンダー」の意味づけは保留するとしても、アンダーアルバムのリリースが本来予定されていたと伺える18th、コロナ禍にあってグループとして10ヶ月ぶりの有観客公演となるアンダーライブを、これも日本武道館で行った26th。もし筆者が“運営”として采配をふるっていても、「ここはどうか頼む!」と、北野さんに任せていたのではないかと思うこともあります。
 ただ、そうした意味での信頼感や評価のようなものがあったとして、そのことが直ちに北野さんを救っていたかというと、そうではないでしょう。当時、または少し後の時期で心境が語られたインタビュー記事についても振り返っていますが、筆者も正直、書いていて胸が苦しくなってしまう部分も多かったです。

 そんな北野さんに、最後にあてがわれたポジションは、「最後のTight Hug」の2列目であったといえるかと思います。2期生だから2列目、というだけのようにも見えてしまうそのポジションを、彼女は「選抜二列目下手端」と表現します。彼女にしかできなかった表現だと思います。改めてポジションの全経緯を振り返ったうえで、記事がここまでたどり着いたとき、ちょっと泣きそうになりました。

 タイトル写真は乃木坂46や北野さんとは特に関係なくて、「0番線」があるホームが珍しくて何年も前に撮った写真なのですが、何かの岐路として機能していた選抜発表のイメージに何となく合う気がして選んだものです。

[3]同期・2期生という存在

 「同期・2期生」を切り口に、北野さんのグループでのキャリア全体を振り返った回です。全員が選抜から外れたタイミングもありましたし、「不遇の2期」みたいなフレーズが少し流行のようになったこともありました(本人たちが使っていたフレーズではないことには、注意したいところです)。
 「2期生」のグループでの日々、特にその前半期は、3期生以降の加入から現在までの経緯を考えあわせると、グループが軌道に乗るまでの試行錯誤の時間であったように見えることもあります(スターティングメンバーである1期生は加入時の人数がとにかく多く、2期生以降はほぼ差はなくて、バランスの取りにくい時期だったことは確かです)。
 そのなかにあって、北野さんは「2期生」へのこだわりや愛情、エンパワーメントを強調してきた時期が長いメンバーだと思います。もどかしい思いも多かったけれど、最後まで諦めなかった。そんなふうに見えます。

 ただ、北野さん自身のトーンがずっと一定であったかというと、そうではありません。揃っていないスタートラインからキャリアを始め、なかなか一緒に活動できず、初めて全員が揃ったのは13thアンダーメンバーといってもよかったでしょう。そうした時期を経て、「2期生という括りから自由になろう」(『BRODY』2017年10月号 p.64)と考えて努力を重ねた、という日々もあったと語られています。
 ただ、その後には欅坂46の結成、3期生の加入といった出来事を経て、枠組みとしての「2期生」にも光が当てられることになりました。期別のライブという形で行われた「真夏の全国ツアー2017」があり、直後に制作された「ライブ神」以降の4曲の2期生曲ではすべてMVも制作されました。4期生11人の加入以降しばらくは、「期別対抗」のような企画がグループに当てられることも多くありました。数字だけを追っていくならば、グループの編成がバランス良くなっていくのと軌を一にして、「2期生」という存在も落ち着いていったのかもしれません。

 コロナ禍での「幻の2期生ライブ」があり、1年を経て無観客・配信形式で実現した2期生ライブは堀未央奈さんの卒業のライブとなりました。キャリアのゴールラインまでを見通す時期にあった2期生たちは、“自粛”の時期に運命を翻弄されたようにも見えます。
 筆者はどうしても、「真夏の全国ツアー2021 FINAL!」が延期になったことで、寺田蘭世さんが最後に東京ドームに立つ機会が失われたのではないかという考えから自由になることができません。「幻の2期生ライブ」時の2期生9人は、最後に卒業した鈴木絢音さんを除き、“声出し解禁”を待たずにグループを離れる形にもなりました。
 記事を書いていて、あるいは自分でいま読み返して、そんなたくさんの“if”が浮かんでしまいます。でも、それをものともせずに駆け抜けたからこその「2期生」だった、そういうふうにも思います。ゆっくりと咲いた花は、決して時代の徒花ではなかった。書き終えてみて、自信をもってそう言えるようになりました。

 タイトル写真は富津岬展望塔、「アナスターシャ」MVのロケ地です(すぐ近くで「忘れないといいな」のMVも撮影されています)。この記事を書いたときには工事をしていて訪れられなかったのですが、今年に入って行くことができ、少し不思議な気持ちになりました。

[4]“先輩”と“後輩”、グループのなかでの役割

 今度は「同期」以外、「先輩」と「後輩」について振り返った回です。2期生は「初めての後輩」としてグループに加入し、その後3期生の加入以降は“1・2期生”とくくられる機会も多くなりつつも、その最後までを「あいだの期」の立ち位置で過ごすことになりました。特有の立ち位置があったし、あるいは立ち位置が変化していった面もあった、といえます。
 そのなかにあって、「2期生であること」を自らのひとつの軸としていた北野さんも、その立ち位置の中心にいるような存在でした。筆者が特に記憶にとどめているのは、22ndアンダーセンターとしてアンダーライブで座長を務めたのち、「7th YEAR BIRTHDAY LIVE」では4期生紹介のMCの回しを担った、2018年末から2019年春ごろまでの時期です。7thBDLでは「スカウトマン」やアンダーアルバム収録の楽曲にも参加するなど、自身の復活を印象づけつつ、グループのなかでの「先輩」の立ち位置に明確に身を置くようになっていった頃だったと思います。

 記事は、おおむね時系列で経緯を追いつつ、特にかかわりの深い先輩および後輩メンバーを数名、個別に取り上げる形をとっています(中元日芽香さんについては[9]での取り扱い)。なかでも、星野みなみさん、衛藤美彩さん、久保史緒里さんについては、小見出しひとつ分をかけて書いた形になりました。先輩/後輩というくくりではありますが、そうしたオムニバス的な形にもなっているかもしれません。
 そのなかでとりあげた、お互いが不調を抱えた時期に久保さんと支えあい、22ndシングル期には久保さんを活動に引き戻した形となったエピソード、および「『乃木坂46の軸』と“終活”」の項でとりあげた、向井葉月さんに「選抜を目指す気持ちが少しでもあるなら、それを大切にして欲しい」と伝えたエピソードは、北野さんのパーソナリティがグループを変えた瞬間だったと思っています。

 タイトル写真は「真夏の全国ツアー2017のときのゼビオアリーナ仙台」です。北野さんにとっては苦しいタイミングではありましたが、そこが久保さんとのファーストコンタクトのような形になってもいたと知り、運命はどこからでも動くんだな、と思った次第です。

[5]「希望の方角」と「忘れないといいな」

 北野さんが乃木坂46を卒業したのは、グループの“10周年イヤー”でした。「真夏の全国ツアー2021」では結成10周年が祝われ、その後の12月には「10周年記念ベストアルバム」として「Time flies」がリリースされました。とくにベストアルバム期には、グループ全体のみならず、個々のメンバーもさまざまな形で、グループと自らのキャリアや思い出を振り返る場面が設けられました。
 そののちに北野さんは卒業を発表し、このことでさらに「乃木坂46時間TV(第5弾)」や、写真集『希望の方角』とそのプロモーション、卒業ソロ曲「忘れないといいな」のMVなど、思い出が振り返られる場面がさらに設けられることになりました。日産スタジアムでの「10th YEAR BIRTHDAY LIVE」より前にグループを離れてしまうことにはなるのですが、いろいろなことを思い起こすことができる、得難いタイミングでの卒業であったのではないかとも思います。

 この回は、これらの時期に振り返られたもろもろについて、文章の形で書きながらまとめていくような形でつくりました。北野さん自身の作品といえる『希望の方角』および「忘れないといいな」をタイトルに掲げてはいますが、ベストアルバム期についての記述が占める割合も大きいです。
 なかでも、「#わたしの乃木坂ベスト」の企画で、北野さんが自らのプレイリストに付したコメント「私のこと、私の周りのこと、こんな物語もあった事を今までとこれからのファンの方に知ってほしい。そんなことが詰まった曲達です。」には、シリーズ記事を続けていくにあたり、改めて励まされました(以前、noteでも書いたことですが)。
 冒頭の「“思い出を振り返る”グループ」の項で書いたところですが、確実に未来へ向かって歩みを進めながらも、同時に絶え間なく思い出を振り返っているような独特の感じが、乃木坂46にはあるように思います。北野さんの物語も、これからもずっと、グループのなかに息づいていてほしいと思います。

 タイトル写真は種子島の「千座の岩屋(ちくらのいわや)」です。『希望の方角』が出てから行ったわけではなく、だいぶ前、それこそ北野さんが2期生オーディションを受けている最中くらいの時期に訪れたものです。思い出深い場所だったので、北野さんが撮影で訪れたというのは筆者にとって嬉しい偶然でした。

[6]あの夏のこと/アンダー曲「アンダー」

 どうしても、どうしても書きたかった回です。「アンダー」および2017年の“あの夏”は、筆者が坂道シリーズについて文章を書くようになったきっかけでもあり、いつか北野さんがグループを離れたとき、また振り返り直さないといけないと思っていたテーマでもありました。
 この間にもコンスタントに、ブログの記事でも振り返ってきましたので、それらとは事実ベースの内容に大いに重複があります。ただ、北野さんのグループ卒業、特に卒業コンサートでなされた意味づけもありましたし、「最後と決めて、この機会に書きつくす」ような意識も、筆者のなかでありました。結果として、インタビューの類に改めて目を通し、従前の記事よりも濃いものが書けたのではないかと確信しています。

 北野さんと「アンダー」、と考えたときに、その向き合いかたについて3つくらいの時期に分かれるように思います。①あてがわれた歌詞に衝撃を受けつつも受け入れていく、武蔵野の森総合スポーツプラザでのアンダーライブくらいまでの時期があり、②選抜メンバーとして活動していたこともあり、楽曲の向こうに自らをというよりはアンダーメンバー総体を重ねていたような時期があり、③そののち再度アンダーメンバーに移った26thシングル期から卒業までの、自らのセンター曲として執念をもって扱い続けた時期がありました。
 「アンダー」に関しては、あてがわれた当初はメンバーもナイーブな反応をみせており、それもふまえてファンダムでは厳しい評価を下されていた楽曲でした。筆者自身も、いろいろと文章を繰ってきましたが、おおむね近しい気持ちであったと思います。ただ、記事内にも書いたところですが、“厳しい評価”を強調していた人たちは、なんというか、えてしていつも北野さんや中元さんの話をしているわけではない、というような印象もあって、ちょっと不思議でした。この曲に向き合う北野さんの息づかいに対して鋭敏であらなければならないのではないか。あの頃にそう感じたことが、この記事を書くまでの5年間につながりました。

 タイトル写真は、「アンダー」の“幻のMV”が撮影されたと思しき場所で撮ったものです。この記事を書くために富士市の山道で自転車を走らせたことと、そのためにゼンリン住宅地図を取り寄せたこと、および「アンダー」の中国語版の歌詞を見るために台湾から現地盤の「今が思い出になるまで」を購入したことが、妙な手触りのある思い出として残っています。

[7]“代名詞”となった「日常」

 グループ(アンダーメンバー総体、または選抜/アンダーという構造)についての楽曲を、徐々に北野さんが抱えて走っていくようになったのが「アンダー」だったとするならば、「日常」は北野さん自身が執念をもって押し上げ、その熱がグループ全体に伝播し、北野さんの“代名詞”をこえてグループの楽曲となっていった、というような、逆向きの動きのあったような楽曲だと思います。
 この回では、「アンダーライブ全国ツアー2018〜関東シリーズ〜」について振り返ったのち、記事を公開した2023年6月までを射程として、「日常」が披露された機会を一気通貫で振り返っています。

 正直、この回を書くのはかなり苦労しました。そもそも[6]で「アンダー」について書きつくして燃え尽きていたところからのスタートで、それでだいぶ時間がかかった面もあるのですが、それに加えて「日常」は多くのメンバーによって披露されており、かつメンバー人気も高いことから、インタビューなどでも言及されることが多く、絞り込んで読み返すのが難しかったのが大きかったように思います。
 結果として2019年以降のインタビュー記事について、手元にある乃木坂46メンバーのものはだいたいめくって目を通した気がします。それでもぜんぜん拾い切れた気はしません。結論としては「こんなに『日常』が広く愛されていて嬉しいな」ということでしょうか。

 「日常」に関して筆者が好きなエピソードは、北野さんが客席のサイリウムを青に指定したのは「青く踊る人たちの色をどうしても見せたい」(のぎ動画「久保チャンネル #17」)からで、自分自身は「赤い炎」である(『EX大衆』2019年10月号 p.81)と説明している、というものです。
 青と赤が半々であった時期もありましたが、北野さん自身が「日常は青」と発信を続けたことで、卒業コンサートでは卒業企画実行委員会のフライヤーで青指定が徹底されて青一色の客席が実現し、その印象のままに現在に至っている、と筆者は認識しています。
 歌衣装は紺色、「真夏の全国ツアー2019」時の衣装も青で、どちらかというと青寄りの曲なのではないかとも思いますが、しかし自分自身が燃える色ではなく、北野さんが「どうしても見せたかった色」がいまも客席に灯っていると考えると、彼女の心の熱さに触れたような気持ちになります。

 タイトル写真は乃木坂46に特に関係はなく、だいぶ前に旅行へ行ったときに新幹線の窓から撮ったものです。「日常」と聞いて思い浮かべるのはこういう色合いのホームだったので使いましたが、「ラッシュアワーの満員電車」でもなんでもないですね。
 MVロケ地の「ザ・ヒロサワ・シティ」が長らく続いていた工事を終え、近々一般客でも入れるようになるので、行ってみようと思っています(タイトル画像をつくり直したりはしないと思いますが)。

[8]「乃木坂46 北野日奈子 卒業コンサート」

 タイトル通り、北野さんの卒業コンサートについて振り返っている回です。開催発表直前の「乃木坂46時間TV(第5弾)」を起点に、筆者自身がチケットをなんとか手にして会場に足を運ぶまでのエピソードを混ぜ込んだのち、セットリストに沿ってライブ全体を振り返っています。
 書いている時点で卒業コンサートから1年以上が経過しており、映像がのぎ動画などの配信で出てきているわけでもなく、記憶は薄れる一方で情報はほぼ増えず、メディアでレポートされた記事と公式写真をなめるように見返しながら綴ったような、正直ちょっと苦しい部分もあった記事でした。
 セットリスト全体に北野さんの思いが込められていることは確かなので、それを想像込みでくみ取りながら、どうにか進んでいったような記憶があります。今後映像の配信が始まったら、大幅に加筆修正するかもしれません(と言い続けてからも、すでに7ヶ月くらいになるのですが)。

 そのなかにあって、「アンダー」が披露された場面の文章は、卒業コンサート直後の2022年3月の時点でほぼできあがっていました。それでもかなり情報を補完するような形で文章にしているのですが、それでも自分が見て記憶にとどめたものを少しでも多く書きたい、と思って、前後の流れがどうなるかもわからないのに書いた断片的な文章がほぼそのまま入っています。ここに向かってシリーズ全体を書いてきたようなところもありますし、これを出したかったので、いくら時間がかかっても心が折れてしまうことがなかった、といえるかもしれません。
 どうでもいい話すぎて記事には書けなかったのですが、卒業コンサートで「アンダー」がかかったとき、筆者はあまりにもドキドキしすぎて、Apple Watchから心拍数の異常を知らせる通知がメチャクチャ届いたのでした(音は出ず、震えていただけです)。昭和の映像で見たことがある気がする、スターを目の当たりにして卒倒してしまうファン、あれって嘘じゃないのかもな、と思いました。
 Apple Watchを使い始めて2年半ほどになりますが、心拍数の異常が記録されたのはその日と、2週間ほどして北野さんの卒業コンサートについての夢をみたときだけです。さすがにちょっと気持ちを入れすぎていたのかもしれません。

 卒業コンサートのセットリストは、本編最後の「日常」の前に「僕だけの光」が置かれ、アンダーライブ九州シリーズに重ねた演出が行われました。このことをふまえて、記事でもこの位置で九州シリーズのセットリストを振り返る形としています。
 これは当初から構想していたというよりは、卒業コンサートのセットリストを見ながら書き進めたらそちらに引っ張られていったような形でした。[6]でもいくぶん触れてはいたものの、ここでこの分量で振り返ることになったのは、北野さんのパワーだな、と思います。
 「人は過去を変えることはできないけど 過去の持つ意味を変えることはできる」という言葉を北野さんが紹介していたのは『空気の色』の時期ですが、「アンダー」も九州シリーズの記憶もすべて、最後のステージで表現することで、意味合いが変わって見えたな、と思いました。

 タイトル写真は「忘れないといいな」のロケ地のひとつ(2:00付近のシーン)で、三井アウトレットパーク木更津から歩いて行けるくらいの場所にあります。北野さんのアクションがあまりにも“きいちゃん”で、好きなシーンです。
 卒業コンサートというよりは「忘れないといいな」の回のほうがなじむ気はするのですが、「矢印の方向に、先に進んでいく」イメージが良くて、ここで使いました。

[9]中元日芽香、「大切な友達」として

 “本編最後”の回です。ここに中元さんを軸にした回をあてるのは、割と最初から決まっていた気がします。卒業コンサートでの「君は僕と会わない方がよかったのかな」、そして最後のブログ。最後まで中元さんという存在と一緒に駆け抜けた北野さんのキャリアを綴っていくには、こうするしかありませんでした。

 北野さんについてのシリーズ記事だというのに、とりあえず中元さんの生い立ちを振り返るところから始めるのはやや常軌を逸している感じがあるのですが(結果としてまた大量の雑誌を引っぱり出してくることになり、例によって時間がかかってしまいました)、似ている部分と似ていない部分がないまぜであった中元さんと北野さんが、グループのなかでの歩みをリンクさせていく経緯を書いていくには、どうしてもそこから始める必要がありました。結果として中元さんのグループでのキャリア全体を概観する形となったほか、ふたりを含むユニット・サンクエトワールについてもまとめて振り返る内容を含めることができました。
 記事後半は中元さんがグループを離れてからの内容となります。北野さんのグループでの9年間のキャリアは、中元さんと重なる時期と重ならない時期でちょうどほぼ半分に分かれますが、その後半期について、北野さんは最後のブログで「当たり前に一緒に頑張っている気持ち」と表現されていました。「君に贈る花がない」「自分のこと」「君は僕と会わない方がよかったのかな」という、中元さんにまつわる3曲を切り口としてその日々を振り返り、北野さんの卒業までを書き終えました。
 最後のブログを締めた「来世もみんなで乃木坂46をやろうね!」は、北野さんらしい明るさでもありますが、絶対に中元さんと「一緒に頑張って」きた日々を明るく終えたいという執念でもあったように感じます。

 ライターの大貫真之介さんが、自身は乃木坂46について「くぼした史観」だ、と書いていたことがありましたが、それでいうと筆者は「ひめきい史観」だな、と思います。グループが持って生まれた「選抜/アンダー」の構造に苦しんだ時間が長くありつつも、それを肯定できるところまで踏ん張りきった、というところに力点があります。
 北野さんはグループに残るという形の踏ん張りかたをしましたが、体調面の問題が払拭できずにグループを離れた中元さんも、その後に心理カウンセラーとしての活動を続けるなかで、著書で当時の出来事や心情についても振り返りつつ、現在も「an・an」などで、当時の経験を織りまぜながら心身の健康について発信するようになっています。北野さんがグループで「一緒に頑張った」という点や、その北野さんとの関係をずっと続けていることをふまえると、中元さんもまた違った形で「乃木坂46」と向き合い続け、その延長線上を確かに歩かれているのだというふうに見えてきます。
 また、中元さんから北野さんへつながる経緯があって、あるいはそれが時代の趨勢でもあったのかもしれませんが、“体調不良”に関するグループの向き合い方も変わったのではないかと思っています。活動が縮小しているわけではないのに、メンバーの体調や学業とのバランスの取り方が、かつてよりだいぶ上手くなったという印象を、筆者だけではなく多くのファンがもっているのではないでしょうか。それがオーディションの間口を広げている部分もありましょう。バタフライエフェクトみたいな話になってきましたが、筆者の肩入れを差し引いても、きちんとつながっていることだと思います。
 先にも引いた、北野さんが向井さんに「選抜を目指す気持ちが少しでもあるなら、それを大切にして欲しい」と励ましたエピソードだって、そこには「当たり前に一緒に頑張って」いた中元さんも息づいていた、ふたりぶんのエンパワーメントだったはずです。

 グループは、第一義的にはメンバーの集合としてつくられているわけですから、すべてのメンバーがグループに対して何らか影響を与え、もっといえば自らの身をもってグループを形づくっているはずです。その意味では、北野さんや中元さんだけが特別なメンバーということではないでしょうし、筆者もそのように主張したいわけではないです。
 ただ、ここまで北野さんの、そして中元さんのことを追っていくことで、ふたりの歩んだ道が、つくったもの、残したものが、そして現在歩いている道が、乃木坂46というグループを見つめるにあたっての強力な補助線として立ち現れてくるに至りました。そうした意味で「史観」と称しています。歴史はたんに事実の集合ではなく、それぞれの立場から編まれるものです。筆者自身が自分のなかで編むことのできたものをこれからも大切にしたいですし、しかし1億人いれば1億人の編み方があることを忘れないようにしようと思います。

 タイトル写真は「君は僕と会わない方がよかったのかな」MVロケ地となった居酒屋さんです。2022年11月に訪問した際に撮影したもので、開店直後なのでがらんとした風景を撮ることができましたが、ほどなくして満席となるような、にぎわいのあるお店でした。2023年11月にも訪れたのですが、もう土曜に予約なしでは入れないくらいでした。
 撮ったときは「ビニールカーテンが邪魔だな」とちょっとだけ思っていたのですが、「北野さんがグループを卒業したころの風景」だと思い直して、いまはけっこう気に入っています。おそらくもう撮ることのできない風景です。

[ex]“それから”の日々と“これから”

 北野さんがグループで過ごした“3320日”より後の、“それから”について書いた、完結編にあたる記事です。これをもってようやく、シリーズを終わらせることができました。
 北野さんはグループを離れて2日目に「レコメン!」に出演し、芸能活動を続けられているので、[1]を書き始めた当初から“それから”を何らか書くことは決めていましたが、それが思ったより長くなってしまいました。でも、こういうたてつけにしたので、受け止めきることができたかな、と思います。

 この期間のできごととして大きかったのは、チップが亡くなったことが2年経って公表されたということかな、と思います。ある程度示唆されていた部分もありましたが、特に[6]までは公表以前に書いたということでもあり、あくまでチップと一緒に走りきった乃木坂46でのキャリアはそれはそれとして書き切り、その後のことはその後のこと、と書き分けるような形がとれたように思います。
 時間は進み、状況は動いていき、過去の意味づけも少しずつ変わっていきます。「乃木坂46・北野日奈子の“3320日”」などと銘打って書いてきましたが、“それから”に引っ張られていた部分も大きく、実際にたくさん書き加えもしました。でも、「日奈子ちゃんとチップ」については、ある程度適切に整理をして書けた、という感覚があります。

 写真はこれも「忘れないといいな」のロケ地です。奥側に映っている遊具で北野さんが遊んでいるシーンが印象的であったかと思います。はっきりとは確認できませんが、「“昔の北野日奈子”がチップを散歩させている」描写のあるシーンも、おそらくこの公園で撮られていると思われます。
 本当は[8]あたりで使いたくて、書いていた時期に足を運んだのですが、親子連れがたくさん遊んでいる時間だったので、この1枚くらいしか撮れずじまいでお蔵入りになっていたものです。もしかしたらチップと遊んだ公園だったのかもしれない、と思い直して、最後に使うことにしました(ここだけの話、実は親子連れを2組ほどPhotoshopで消しています)。

 --

 最初からわかっていた結末という感じがしますが、40万字もあるのでダイジェストで振り返るぞ〜という記事が13000字くらいになり、これだけでもできれば読みたくないような分量になってしまいました。でも、満足です。[ex]までとあわせて、書き切れたぞ! という気持ちでいっぱいです。

 日付が変わって、2024年1月31日になりました。北野さんがグループ卒業を発表してから丸2年です(発表そのものは20時ごろのことでしたが)。
 この日を区切りとして、自分も未来へ進んでいこうと思います。北野日奈子さんがいて、白いガーベラの咲く星で、これからも生きていきます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?