アートとサイエンスのあいだ

ぼくは、人間的魅力や器はそのひとの振り幅で決まると思っていて、自分が少しでもたくさんの情報にアクセスし、仲間と深く結びつき、多面的に物事を判断できるよう意識的に振り幅を広げる人生を設計しています。

その瞬間に置いて仕事に120%没頭する。新入社員とも役員とも一定のコミュニケーションをとる。気のおけない友人と記憶があやふやになるまで飲む。趣味のマンガと麻雀は自分の納得がいくまで突き詰める。メンヘラっぽい瞬間も、自分がまるで無感情に判断していると思われるだろうなという場面も、つねに混在しています。

大学生活すらハックできず、クレジットカードの支払いを滞納し、起業して何社も失敗してきて、いまやっている事業も何年も苦しんできた。自分より若いみなさんが最初からトラクションを生み出しているのを見て、おれはどれだけバカだったんやと本当にしんどい気持ちになっています。

一方で、ぼくには他人の「わからない」「できない」「恥ずかしい」という気持ちが痛いほどわかるという自信が身につきました。マクロな俯瞰やケーススタディもしないわけではないので、数値やロジックで会話したり、ピュアな経営者との商談やオールド・ファッションな接待もできるつもりです。学生時代は、流行っていた恋愛シミュレーションゲームの推しキャラクターの誕生日を祝うくらいには隠キャだった反面、ヤンキーと仲良くしたり、勉強もしっかりがんばっていた多面的な性質がずっと残っています。

さて、このところ考える機会が多いのは、ビジネスでいうところの「アート」そして「サイエンス」な部分に関するそれぞれについてです。

完全にゼロイチでプロダクトをデザインしたりリリースしたり、なにもかもファジーな状態でやるべきことを「アート」、それらが一定の先行指標を示してから再現性のある方法でエグゼキューションしてゆく過程を「サイエンス」と呼ぶ機会が多いと思います。これは、ビジネスに関わる全員にとって、得意かどうかには濃淡が出てきます。

パッと考えると、あまり考えずに行動や感性を優先して仕事してしまうタイプがアート寄り、ジェネラリスト気質でテスト勉強とかに強いタイプがサイエンス寄りに思えてしまいますが、じつのところ、向き不向きはまったく事前に察知することはできません。というか、ある日突然どちらもできなくなったり、視界がひらけてどちらも攻略できたり、つかみどころのない能力値(もしかしたら、そんな能力があるという認識が間違っているかもしれない……)だとぼくは経験的に思っています。

個人的な願望として、ぼくはこのアートもサイエンスも極めたい。ちがう言い方では、「おれはいわゆる0→1だとか1→100だとかじゃなくて、0から10000000000までやれるようになるんだ!!!」と冗談めかして話すこともあります。

同世代の経営者のなかでも尊敬しているGunosy創業者(現在はLayerX創業者)の福島良典さんが、要所要所で大変参考になるポストをします。

「ゼロイチは再現性を持ってやるのが本当に難しい。ソフトバンクの孫さんですら、これはもうM&Aしたほうがいいと決めてある時期から方針を固めたのではないだろうか(記憶なので意訳かも)」

なるほど、と思った意見です。孫正義さんは大学時代に自動翻訳機をシャープに売り込んだり、アメリカで起業したりしてソフトバンクを創業した経緯がありますが、完璧超人に見える孫さんでも100%の打率では新規事業をホームランまで持っていくことはできない。原資がゼロ同然のところから一大事業に育ったケースですら、成功者バイアスがかかっているのかもしれないと感じました。

一方で、こちらの意見も福島さんが発信していた内容。

「アートな領域は不確実性が高いからといって、ちょっとエグゼキューションを経験したひとはアートを過大評価する。本当にサイエンスをやり切れている会社なんてごくわずかしかない(記憶なので意訳かも)」

こちらも自戒を込めたうえで痛感します。感情を排して合理性でPDCAを回しても、それを24時間365日やりきっているか?本当にロスはないのか?そもそも、データや統計に対するリテラシーは意思決定をするチームが見合ったレベルで持てているか、指導できているか? 耳の痛い言葉でした。

これからも、情緒を大事にしたうえで大胆な戦略を意思決定し、高度に計算された判断を回し続ける組織づくりをしていかなければならないなと改めて感じています。

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