連続インタビュー 三人目:守山真利恵

第三の語り部は、演出の守山真利恵です。なぜこの2人の役者が、南米の2作品をやることになったのか、真相が明らかになります。

触れたくない部分にちゃんと向き合って躊躇なく傷ついてくれるんです

- なぜ二人芝居にしたのですか

限られた時間の中で、その人ときちんと会話ができるような関係になるためには二人っていう人数が最大でした。役者が何を考えているのか、何を思っているのか、どういう価値観を持っているのか、またどういう生き方をしているのか、そういうことがわからないと、うまくリードできませんので、きちんと会話あできる関係をいかに築くかを常に考えています。

- ではなぜこの二人にオファーしたのですか?

むらさきくんは、以前に舞台でご一緒した時に、生きることに対する考え方だとか、また逆に生きづらさに対する考え方が、面白いと思いましたし、ものすごく共感できるところがあってまた一緒に舞台を作りたいと思っていました。鎌田さんは、大学時代に一緒に芝居をしていて、本番で見せる顔や、本番直前になった時の追い込み方、何を削って芝居をするかなど、月並みな表現ですけど、女優として惚れ込んでるところがあって今回オファーしました。

- 削るとは?

自分を傷つけることですかね。これはむらさき君にも言えることですが、役を生きる中で、自身の内に閉まっている(思い出すと辛くなるような思い出や経験といった)触れたくない部分にちゃんと向き合って躊躇なく傷ついてくれるんです。二人は傷ついたあと、単に落ち込むんじゃなくてそれを糧にして表現できるから、とても魅力を感じています。

- 傷つくことがこの二人の役者のキワードだと思います。それは自分が普段隠そうとしている部分を表に出すということなのでしょうか?

平たく言うとそういうことになります。傷つくっていうとすごい大仰に聞こえますが、全然特殊なことではなくて、当たりのことだと思うんです。例えば、人が死ぬシーンで死者を看取る役をやる場合に、自分のおじいちゃんが亡くなった時のことを思い出すといったことです。思い出したくなくても、すごく辛い経験や思い出を土台にして役を作っていってほしいんです。それでもやっぱり辛いことや嫌なことって、自分の中で美化したり、無意識に触らないようにしたりするものですよね。だからその辛い経験のことを想像してくださいって役者さんにお願いしても、「本当にその時その程度の感情でしたか?」ってところまでしか想像してくれないことがよくあります。そこを必死で乗り越えてくれるので、二人には信頼がおけるんだと思います。

- 役者の個性が作品に与える影響はありますか?

2作品とも、”今ここにいること”をどう捉えるかっていうことを描いた作品なので、今ここにいるという現状に対して、一度でも、心から疑問や不快感を抱いたことがある役者さんとこれらの作品に挑みたいと思いました。そういった疑問なり不快感なりを抱いたことのある人なら知っているはずの痛みや、触れたくない感覚に、この二人はとても敏感なんだと思い、この二人を選んだということもあります。

- そういう痛みをよく知っているだろうと?

人より敏感に。二人ともハーフで、自分がどうこうしたって覆らない圧倒的な現実の前に、やっぱり人より敏感になるんだと思う。それをどういう風に対応してきたかは、それぞれだろうけど。

どこにも行かない人たちの、どこにも行けない話

- これまで数多くの古典作品を演出してきた中で、なぜ南米の2作品をやろうと思ったのですか?

南米文学はもともと好きでずっとやりたいと思っていたのですが、そのタイミングがありませんでした。ところが昨年就職をしまして、1つの職場に通い、組織の一員として1つのことに従事するようになってから、「私は死ぬまでにどこにたどり着き、どういう景色を見たいのか?」ということが分からなくなって、自分の中でこれまでにない危機感を覚えたんです。組織の中で一つのことに専念することはそれなりに面白いですし楽なんですけど、自分が演劇を始めたのは、そういうことを味わうためではないということがはっきりしてまして。フライヤーに「どこにも行かない人たちのどこへも行けない話」と書きましたが、まさに自分が「どこにも行かない」ことを選択しようとしている、それに対する危機感を抱き始めた今こそ絶好のタイミングだと思い、南米文学に挑むことに決めました。

- 南米文学のどういった点に魅力を感じているのですか?

文章を読んでるだけで、空気の温度とか、色の感じまで手に取るように分かるっていう鮮やかさが好きです。とにかく色鮮やかで、鮮烈なんですよね。あとは、極彩色というか、太陽と土の色みたいな文章なのに、そこに生きる人たちのすごく細かい衝突や苛立ち、悲しみや苦しみがきちんとその色の間に描かれいて、その緻密さ、綿密さが圧倒的です。

- 脚本にして舞台にした場合、その色鮮やかさは失われますか?

セリフ以外のト書きの部分に立ち表れている色とか空気感が、すごく強いと感じていて、残念ながら今回はそこまで拾いきれていないです。ただマルケスとオカンポが緻密に描いた、万国共通で時代を超えて存在するであろう心の動き、髪の毛1本分ほどの本当に細かい心の動きは1ミリも落とさないようには作っています。

- 髪の毛一本分の細かさとは?

ちょっとだけシュって心がかすれて、少しだけ嫌な思いをするといった心の動きですかね。例えばシェイクスピアの書く言葉はその言葉によって命を落としかねないような致命傷になるかもしれない。一方で南米文学、特に今回扱う作品の言葉は、ものすごく死にたいと思わせるけど、命を落とすような傷は与えないです。死にたくなるけれど、死ねるほどの強い決断はもたらさない、それくらい微妙なラインにある言葉です。我々の日常の中にある言葉の強さと非常に近いと思います。「バカじゃねぇの?」って言われても死のうとは思わないけど、結構落ち込みますよね。今作の言葉はそれくらいの強さの言葉なんですけど、そういった言葉をものすごく綿密に積み重ねていった結果、人はこうなりますっていう話ですから、国も時代も違いますが、お客さんにも我々にも限りなく共感できる言葉であり物語だと思います。

役者の目を見て欲しい

- 両作品の見どころを教えてください。

役者の目を見て欲しいです。会場がとても小さいので、役者の表情がよく見られると思います。南米文学をやると決めた時から会場はこれ以上大きくしないと決めていました。なぜかというと、役者が作品の言葉に共感を得やすい分、派手に動こうとするとものすごく嘘になるので、大きな動きが必要ない会場が適していると思ったからです。今作の言葉は、大きな動きでは嘘になる代わりに、表情や呼吸、目の動きや指先一本の動きなど、ものすごく細かいところにまで落とし込める言葉なんです。なので派手なところはないけれど、ものすごく静かな情動を感じる舞台にしています。ところどころのシーンで役者の目にグーっと力が入る瞬間や、相手に触れようとしてやめる手の動き、そういったものすごく細かいところを見て欲しいです。特に二人は目が魅力的です。棒立ちになってただセリフを喋ってるだけなのに、ある言葉になった時に役者の目が少しキュっと細くなったりだとか、そういうものすごく細かい生理反応が、すごくドラマチックに見える瞬間が両作品ともあります。ぜひそういったところを楽しんでいただきたいです。

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