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恋愛できない人間もいるよ。愛とか好きの感覚が普通と違うって話。

先生との関わり方を話すと「大丈夫なのそれ、どういう関係?」とよく言われるけれど、関係性なんかなんもないよ。関係性につける名前なんかに興味はない。

名前のある関係性が正しいとか、誠実とか、ない。
関わりすべてに名前をつけられるほど「好き」の幅が狭くない。

たぶん私の感覚と一番近いものを持って関われるのが先生なんだよね。
恋愛できない、関係性に縛られたくない、気楽でいたい、自分も時間がほしいとか。

最初、先生はわりときつい言い方をした。
「俺は好きという感情に応えられるほどちゃんとした人間じゃない」
「何も求めない、その時間だけの無責任な関係ならいい」
「軽い関係のままでいいならいつでも来ていいよ」って。

きっと最初に釘を刺すために、かなり直球に言ったんだと思う。
実に都合のいいセリフだ。でも人間は誰しも都合がいいのだ。
私はそんなことを直球では言わないが、実際その感覚は理解できるし、共感する。

言わないだけで似たようなことを思っているし、自分に恋愛的に好意を持つ人に、
「好きだけど付き合えないし、好きだけど君の好きとは違う。だから君の好きには応えられない。だけど、それでもいいなら、これからも今までと同じように君と関わってもいい。恋愛を求めないなら、関わる」
なーんてことを長々とLINEで送ったばっかだ。

先生がどこまで私を好きなのか、いや、どういう感覚で許したのかわからない。ただめんどくさくない関わり方をしてくれる都合のいい奴と思っているのかもしれないし、単純に私の好意に対して嫌な気はしなかったのかもしれない。最低限、自分の付き合い方を理解してくれるからいいかなと思っただけかもしれない。それなりに好きだけど恋愛はしたくないだけかもしれない。

私は、関係性はどうでもいいから大学という繋がりがなくなっても関りを持てればそれでよかった。欲を言えば、もう少し距離が近くなって会う頻度が増えて気楽に会えたらいいなとは思う。それくらい。先生のこと、縁を切りたくないくらいには好きだし、他の人と同時に誘われたら先生を選ぶくらいには好き。

私と会わないあいだ、先生が誰かと寝てるかもしれない。
それを哀しいとか悔しいとは思わない。もしその相手が学生か卒業生だったら哀しくなるかも。学生に心を許したのが、初めて家に上げた学生は私だし、それ以降の学生たちの壁を薄くするために頑張ったわけじゃないから。それは私が最初で最後であってほしいとは思う。

先生と会わないあいだ、私は誰かと関わる。それを先生はもちろん気にしたり嫉妬したりしない。興味もないだろう。恋人がいると知っていて誘ってきたくらいだし。
先生のことは好きだ。でも先生だけが好きなわけじゃない。異性で一番好きなのは先生だと言い切れるくらいでしかない。だから他の人とも関わるし、手も繋ぐしハグもするし寝る。

好きだから、心を、体を許すという感覚は私にはない。
その行為に嫌悪するかしないか。その行為がその瞬間心地よいか否かでしかない。
好きは好きという感情だ。感情の一つだ。
好き、だから、となんでも「好き」の後に「だから」が続くのはおかしいんだよ。抱きしめたいと思うは抱きしめたいという感情の一つでしかなく、そこに「好きだから」が必ず含まれるわけじゃない。

私は好きな人たちと好きなときに会えたらそれでいい。
会いたいときに会えれば、触れたいときだけ触れられればそれでいい。求めたことに応えてくれればそれでいい。
きみだから会いたいけど、きみじゃなくてもいいよ、みたいな。
きみが好きだけど、あいつも好きだよ、みたいな。

だから私は恋愛ができない。一般的にみんなの言う恋愛ができない、理解できない。意味がわからない。したところで浮気と言われるのが目に見えてる。自分にその感覚がなくても、過去に「それ浮気じゃん」って言われたこともあるし。

「好きだから付き合って」という言葉は日本語で一番理解不能だ。

私のことを好きって言うのに恋人がいる人がいるのはあたりまえなんだけれど、その恋人の好きと私に対する好きの違いはなんなのか知りたい。
極論を言うとね。わかってるよ、どういう意味なのかは笑。

愛情と友情に違いがないから、私の好きは軽くて重い気がする。
恋愛的に私を好きな人からすれば私の愛は軽くて、そうじゃない人からしたら重いかもしれない。

もし一般的にみんなが恋人に使う「好き」ってやつ。
私がもしそれと同じ感覚で愛を使うなら、その相手は一人しかいない。
もちろん恋愛的というわけじゃない。
ただそばにいて一緒に暮らして生きていきたいと思う相手は一人だけいる。きっと世間一般ではそれを愛とか結婚したいとか言うんじゃないかな。
それと近い感覚はある。
私はその人を好きだ、その存在全てを受け入れるくらいには好きだし、否定しないくらいには好きだし、居なくなったら嫌だなとどうくらいには好きだし、気まぐれじゃなくて消えない好きだなと確信できるくらいには好きだ。ただそれだけ。

とりあえず、ふつうに恋愛ができない人間もいるんだよってことを今まで言ってきてるが、何度でも言いたい。

あたりまえのように恋人の有無を聞く人がいることが信じられない。そこに何の意味があるのか。年齢や性別を問うてるくらいに陳腐だなと思ってる。
(ついでに軽く性別の話もすると、私は私でしかなくて、性別すら、興味ないし、分類することとされることに違和感がある。自分の生まれ持った性が女なのは確かだし、それを否定はしないけれど、女と括られたり思われて関わられたくない。だから中性でいたい。ノイズはノイズなんだよ、女とか男とかそういうことじゃないんだよ。)

結局、ひどいことを言ったような先生が関わる人のなかで一番誠実だということ。先生は都合のいいことを言わない。嘘も言わない。お世辞も言わない。

私は嘘が嫌いだから、嘘までいかなくても本音じゃない言葉が嫌いで吐きそうなくらい嫌いで、なんなら本音じゃない言葉が自分に届くたびに痛みを感じる。
いつだってそれに刺されて血だらけだ。死んでも私にお世辞を言わないでほしいし、媚ることもしないでほしい。
本音なら嫌いって言われたっていい。嘘の好きなんて少しも嬉しくないし、痛いだけなんだよ。

心とか言葉に敏感すぎて他人と関わるのが疲れるし、仕事で上辺だけで関わるのが本当にしんどい。仕事が、というより仕事での関りが、しんどい。
言葉と心と表情が噛みあってない人の顔を見てるとどういう顔をしていいのかわからなくなってしんどい。

話が逸れたので、この話は終わり。

恋愛できないっていうか、愛とか好きの感覚が他の人と違う人もいるよっていう話でした。先生のことをつらつらとインスタのストーリーに書いてたら長すぎて文字が見えなくなったのでここで消化しようと書き殴ったのと、相変わらず文章下手くそで嫌んなるね。

最近本を読んでいて、「アロマンティック」というものを見て、私の感覚に近いものはこれかもしれないって思った。
セクシュアルについて全く詳しくないから、わからないけれど。
あんまり分類する必要性も名前をつける必要性も理解される必要性もないから、ゆるーく自分を理解したり、他人に簡単に説明する材料になればいいのかぁくらいには思っている。

心の瞬間の共鳴にぼくは文字をそっと添える。無力な言葉に抗って、きみと、ぼくと、せかい。応援してくれる方、サポートしてくれたら嬉しいです……お願いします