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最後から一つ前の言葉 ~大浦るかこ同人短編~

最初の言葉

…始めよう。でも、私はいつから始めようと思ったのだろう?文字にするならば3点リーダの段階で私は始めていたのかもしれない。配信ならば、言葉を出さずとも画面が変われば始まるのだけれど、これはそういう事ではない。いきなり脱線をした。まぁ配信でもないしいいか。いずれ、これは、受け取った時からいつか始めなければと思っていた。

淹れたコーヒーを一口飲んで…よし、これはもう、言い逃れが出来ずに始まっている…手紙に添えられていた長文を手に取る。よく投稿をしてくれていたリスナーの訃報を手紙でもらうというのはさすがに初めての経験だったし、ななしさんも驚いていた。二度とないかもしれない。死んだ当人のメモがついているとなれば、なおさら。

「概念になりたい」と言ったのは嘘ではない。遍在したい。無限の可能性でありたい。私でありながら世界でありたい。表現するってそういう事だろう。いつか私は、私を超えたい。

しかし、表現していけば、何かを語れば、何かを失う事もある。「絶対に朝食はパン派」と言えば、朝に白米を食べる私はイメージされなくなるだろう。まぁこれは、そもそも炊飯器を持っていないのでイメージもされないかもしれない。「朝食はパンの事が多い」なら、たまには白米の朝があると想像してもらえるかもしれない。人は語る度に、自分のイメージを作りながら、自分のイメージの余白を削っている。

一方で、あるいは、湖南みあは語りながらイメージの余白を広げている。彼女は自分の発言を瞬時に取り消せるからだ。「いやあたし、毎日パンだから」と言った2秒後に「ごめん毎日は嘘」と重ねることが出来る。これはすごい、全てが残る。何のイメージも損なわれないのに、湖南みあが語られている。パンばかりを食べる湖南みあから、白米を食べる湖南みあ、もっと言えばなんだかんだ白米の方が多く食べている湖南みあすらあり得る…ゆらぎを持った存在として情報が発信される。0でも1でもない情報がネットを通じて広がっていく。

謎を好むスパイの方がよっぽどそうした二重性は確保できたはずだろう。しかし、そうしたやり方とは別の所でイメージの余白は確保していかなければならないようだ。…私、今、翻訳された海外小説のような語りをしているな。

ともあれ、徒に語る事は避けた方がいいとはいえ、多作ではありたい。多くの作品を、配信を、コラボを、企画を、こなしていきたい。そしてもちろん、あにまーれの一員である事で、774incにいる事で、私一人では出来なかった事も沢山やらせていただいている事を自覚しなければ。アイドルである事を自覚的にいられているかは分からないけれど、実際、あにまーれだから出来た事がどれだけあっただろう。774incのおかげで出来た事がどれだけあっただろう。今までもそうだし、これからもそうだろう。ありがたい。ともあれ、そうする事で、幅を広く持てる事が証明できると同時に、その幅の中に一貫した私が現れるのだろう。だからもちろん、新衣装が出た時も嬉しかった。私は変わり得り、変わらない面がある。揺らぐ事で、幅が出る事で、概念が補強される。

同時に、電脳化もしたい。これも嘘ではない。しかし、莫大なアーカイブを残す事で、私が記録として電子の海に残る事や、私を模したAIが出来る事そのものが目的ではない様には、自分でも思う。それは、なんだろう、そこからの揺らぎが無い。もっとシンプルに言えば、私ではなく私のAIが先輩方とコラボをすればいいという話ではない。それで先輩方が納得するのであれば悪い事ではないけれど、そうではないと信じたい。

確か藤井聡太さんがインタビューで答えられていたはずだ。AIがさらなる進化を遂げ将棋で人間を上回ろうと、棋士同士の盤面での戦いの中でのみ見せられるものがあり、それを見せる…魅せるだったっけ?…ための棋士を目指しているという話があった。

デリダ「名を救う」より。「申し訳ないが、つねにひとり以上、必要なのだ、語るためには。それには複数の声が必要なのだ」。電脳とは、結局はツール。電脳化する事は、概念化のためのツールに過ぎず、ラベル・「名」となる事でしかない。究極的には私は人に見られ、インタラクティブである事で完成する。もちろんそれは、投稿やレスやコメントをもらうだけではなく、見るという事だけでもインタラクティブな結果をもたらしているのだけれど、私達は互いにやっていかなければならない。私は私としてやっていかなければならない。やっていくとは、未来に向けて変化が続くという事だ。イメージは近いようで、電脳化は概念になる事とは大きく違う。

しかし一方で、ラベルそのものが自走するようになる事も、電脳化の利点としてある。巨大で力強くある事は、何もしなくても、それだけで世界へ影響を発揮する。大仏はブッダそのものではないが、確実に一つのアイコンとして機能している。その機能の仕方は必ずしも仏教の布教と一致するものでもない(鎌倉の大仏に「修行」に行く人はほとんどいない)けれど、しかしそれは仏教という概念の補強には役に立つだろうし、何より楽しい。アイコニックであると思う。

ああ、アイコニック。そう、あるいは、インタラクティブであるという事は、私が変わるという事と同時に、仏師を増やす事なのかもしれない。各人が己のアイコンとしての仏を、木から削り出す話だ…よく言われる例えだけれど、仏師は頭の中の仏を映し出すのではなく、木と対話して削り出すべき像を見つけるとか。そこに出来上がるのは、仏なのか、木なのか、仏師(の技)なのか。難しい。それでも、仏師は仏を彫る。これは面白い。本当はお互い別な事を、一つのまさしく概念を通じてお互いがやっていて、それをインタラクティブと呼ぶ…うん、多少シニカルな感じになってしまったが、本当はそうなのだろうし、それでも素晴らしいとは言える。イラストや二次小説は私そのものではないけれど、私を通じて交換が行われているように、仏像は仏そのものではないけれど、仏を通じて何か交換が行われている。その延長戦として、そして一つのシンボルとして、電脳化は大仏化だ。大きすぎてもはやそれ自体を交換の通貨とはできないが、それを崇め楽しめるもの。概念を補強するための、バフをかけるためのアイコン。

同時に…そう、同時に。電脳化される私と、インタラクティブであり続ける人の脳のままの私とが、同時に、各人の私を作り出して行く事。そうして、大浦バースを作っていく事。大浦バース同士の大浦が交換されて行く事で、私を超えていく事。それこそが概念なのかもしれない。ああ、もう私は、私じゃない。超大浦るかこ。「すごいよ。」(←「くもりクエスト」の引用はふざけ過ぎなので修正する。とは言え、ステッパーズ・ストップは大浦るかこと相性が良さそうなのでいつか何かに活かす。Most Far Placeか?)

(メモ第1稿としては一旦終わらせる。ステストのほか2か所修正箇所あり)

このメモは、皮肉なことに更新可能性の夢の話をしている。どこまで行ってもこのエントリーは「大浦るかこ」ではなく「彼のメモ」だ。私、「しかし」って言わない…と思う。でも(ほらね)、彼の世界に生きている私ではある。確かに、大浦バースの一つなのかもしれない。彼は、私とは違う「大浦るかこ」を己の中に抱えている事を知っていながら、私とコミュニケーションを取ってきたし、私は実際投稿の採用もした。そのズレは、ヴァーチャルだからという一言で片づける事ではなく、活動の中に、互いに影響されていくはずの事だったのだろう。「差異と反復」そのものだし、彼のメモ自体は「千のプラトー」の影響も感じられる。その先に、私も、彼の中の私もいる。

でもその更新は止まった。彼が死んだ事がきっかけで私はこのメモを読むに至ったけれど、彼の中の私も止まってしまった。更新可能性は無い。修正点も修正されない。途中で「名を救う」が出てくるけど、「その度ごとに一つずつ、世界の終焉」もデリダだったかな。

感化されたわけじゃなく、いずれ、私が終わる時の事も考えなければならないのだろう。最後の配信をしないという手段もなくはないだろうし、あるいはそもそも出来ない事も考えられるけれど、やはり、感謝は伝えたい。自分だけの活動でもない。だから、あにまーれの一人として、普段に配信と同じで、最後の一言は決まっている。まさしくデリダの「アデュー」と同じだし、そうあるべきだ。そう、だからこそ、最後の言葉が決まっているからこそ、最初の言葉はその後に考えるべきだった。私の、初配信やタグ決め回ではない最初の配信が、彼のメモを作っているのだから。一方で、新たに私を知る人が聞く最初の言葉を、私は選べない。彼もあの配信から聞き始めたかは別の話だ。

彼は私へこうしてメモを渡せた訳だけれど、私たちは自分にとっての最後の言葉しか選べない。相手にとっての最初の言葉も最後の言葉も、私達は選べない…時がある。「存在論的、郵便的亅、いやこれはもう、配信的。

でも(やっぱり「しかし」とは言っていないよね?)…だからこそ、存在した言葉が、最後から一つ前の言葉が望ましいのだろう。最初にして最後という「たった一つ」ではなくて、そんなただの言葉ではなく。同時に、分かり切った最後の言葉でもなく。連続しうるという形で広がりを持つ、「最後から一つ前の言葉」という存在である必要がある。最後に考えるべきは、最後の言葉ではなく、その一つ前であり、それはつまるところ…選べない最初の言葉だ。だって、最新の言葉は、常に最初の言葉なのだから。彼の描く更新可能性の夢にして…そう、夢にして、ドゥルーズが酔いに見た夢。

最後から一つ前の言葉

「酒飲みは常に最後の一杯の一つ手前を求めている」。初めて聞いた時はなんかカッコイイなくらいだったし、今もお酒への実感はないけど、湖南みあを見ているとそうなのだろうという気はする。酒飲みが求めているものは、酒を飲み終わる事ではない。飲めなくなってしまう、今日が終わってしまうという最後の一杯ではなく、その最後の一つ手前こそが、本当に求めているものだという。永くもがなの酒びたり。つぶれる事が目的ではなくて、楽しむ事が目的なのだから、それはそうだろう…うん。そして、やめるという選択肢は無いのだから、次の一杯を…そういう事なのだろう。アルコールで眠くなってしまわなければ、同じ事は思えたかも知れない。

最初の一杯がなければ飲酒は始まらないが、始めたからには終わらないでほしい。なるほど正直だし、読書やゲームもそうかも知れない。ラスボスの手前でゲームをセーブして放置してしまう人や、最終章が読めない人の話も聞いたことがある。結局読み終わらないのなら読まなければいいという事ではない。始めたかったけど、終わらせたくないから、次を…。湖南みあの配信が時間としてすごい長くなる事も自然な事だし、時間管理はこうした欲求とは無縁のものだ…いや、これだとまるで湖南みあがただのアル中のようになってしまったけれど、そうではなくて…ノンアルの配信でも彼女は自分一人の配信ではタイムキープしないし、一人の時にタイムキープが出来ないのは私も一緒だ。そもそもあにまーれとしての活動自体がそうかも知れない。やり始めたくて始めさせてもらえて、終わりなんて意識したくない。でも配信は出来れば1時間程度で切るべきだ。そう出来ればいいのだけれど…あ、これ飲んべえの人と同じこと言っている。

そういえば、裏ラジの最終コーナーをお悩み相談にしていたのは、深夜ラジオでの慣例的な所があったのだけれど、あれは実際話が終わっていく事を納得させるための深夜ラジオとしての策なのかもしれない。こればっかりはいつまでも続ける話ではない、という点は共感が得られるだろうから、クールダウンとして機能している。ああ、チェーン居酒屋がコースで訳も無くデザートを出すのも、客回転のために飲み続ける欲求を下げるため…というようなブログを読んだ事もあるな。そういう…仮説とはいえ、最後に向けての施策を、少なくとも現段階では実装する事は私にはない。そもそもそれは、私が言う「最後から一つ前の言葉」ではない。それは最終章であり、大きな最後の言葉だ。

最後から一つ前の言葉、というのは、「ありがとう」でも「さようなら」でもない言葉たちだ。そして、「ありがとう」を言うために必要な言葉達だ。私達が配信で発し続ける言葉は、そうでなくてはならない。うん。

最後の一言

気が付くとコーヒーを飲み終わっている。思ったより時間をかけたし、相変わらず脱線をしてしまった気もするけれど…いや、したな…まぁいいか…メモには私なりに答える事が出来て、彼への「ありがとう」と「さようなら」は言えたのではないだろうか。未だ生きていて、未だ活動を続ける私としての言葉としてなので、ここで「おつまーれ」と言うのは何か違う気がする。私が終わりたいタイミングではなかったからだろうか。でも、そういえば、ただ一人に向けて「おつまーれ」と言う事は、配信ではありえないのかもしれないから、まぁ、そういう事かもしれない。

今日の配信は3時間後。おかげで目が覚めたし、準備に取り掛かろう。私には綴るべき言葉達が待っている。「おつまーれ」を言うための、最後から一つ前の言葉達が。






あとがき

あにまーれを好きで、それゆえに自負があり、自ら完璧主義者と言う通りに準備をしっかり行って配信をする大浦るかこさんが良くて、そうして素晴らしい番組の最後に言う「おつまーれ」が本当に良い…単にこれを推したいだけなんですが、今回は名作にしてある意味で真に自由になってからの初回である下記の配信をベースに、「自分なりの大浦るかこ」を書いてみたかった…というところです。本作、私の中では全編るかこさんの声での読み上げが出来るようになりつつある(脳内ではもうされている)ので、ここまで読めたのなら多分配信向いてますよ。ぜひ聞いてみてください。

「しかし」(ほらね)、一方で、私がるかこさんを考える時、それは同時に大浦るかこさんを推しているという事を考える時である以上は、どうしても自分にとってのアイドル論は外せず、かなり下の話をやり直した感があります。Chyの好きなデリダ・ドゥルーズを入れた理由もここにあるし、初手で自分を殺すのも多分この話に由来してます。11年経って、大分整理がされた気がします。亡き友の話を推しで整理するというのも変な話ですが。

大浦るかこVSデリダVSドゥルーズをメタで…という、要はやりたい事をやっただけ。るかこさんを語るはずが、自分になってしまった。人形でごっこ遊びをしている子供を撮ったら、そりゃ人形の特撮ではなくホームムービーになってしまうでしょ、という話ですね。

↑クリエイターと言われるのこっぱずかしいですが、サポートを頂けるのは一つの夢でもあります。