本当に怖いもの

特に意識もせずに恒例になってきたんですけど、大きめの記事をアップしたら内なる誰かが「そうはいってもこれは?」と考えだします。

今回、あのインタビュー記事で、仮に世の中全体の表現に対して適用するような議論だったとして、本当に怖いものがあるのだとしたら、ガイドラインの提案とかそんなもんじゃなく「作為があればよい」ではないかなと。

例えばスラッシュムービーなりホラーなどの猟奇的な、恐怖や暴力といった表現は、作品のコンセプトから憎悪や攻撃の感情をこめたものだし、作為なく描くなんてこたあどうやったって成り立たないジャンルなわけです。しかし、これらの分野はしばしば社会的に問題視され、時に発禁騒動にまで発展することもあり、「これは作為があるから存在してよい」と社会的合意されているものとは決して言えないでしょう。

それらの作品が、世にあってよいかどうかと問われるときには作為もまた、時に焦点になります。「こういった作品を作っているなら、あなたには社会に対する害意があるはずだ。ないならこんな作品を作るわけがない」と。

作品を作るならその意識を問われ、その意識こそ問題視される。作品を作らないならその意識がないとみなされ、問題視はされないがもう作品を作ることはできない。そういう袋小路の理屈をつきつけられることを、過去何度もみてきました(私はやっぱり表現する側の立場でしかないので、こういう書き方になってしまうのはご了承ください)

2009年から2010年にかけて、ネットの一部では今では「レイプレイ騒動」と呼ばれる論争がありました。このころツイッターギリあるね。自分のログにもあったかな。

アメリカやイギリスで活動するとある団体が、日本で発売された18禁ゲーム「レイプレイ」の販売差し止めを求める抗議行動が、大きな話題になりました。これは最終的に国内でも自民党内の勉強会でも取り上げられるなど、大変ショッキングな事件でした。アダルトゲームの愛好家を中心に、日々ネットを介して盛んに意見を交わされ、そこで得たあらゆる立場からの知見が、今も自分の糧になっています。

「そんな表現があることが許せない。存在自体が脅威だ」という言葉もたくさんみたし、「この世界に暴力や理不尽というものが存在することを偽らない、そんな表現があるからこそ私は生きていられるのだ」という言葉もたくさんみました。

いまも時々、頭の中で「それで、あんたはどうなの?」とささやいてきます。

まあ、その先は今はおいといて、今回の楠木先生のお話はあくまで「少女漫画という分野の、主な想定読者に向けるものとして、ジェンダーに関する偏向はあるのか、あるとすればどうするべきか」という限定のもとに論じられているものである、という認識です。

レイプレイ騒動の際の議論が「世の中から一切の刃物がなくなったら著しく日常生活が困難になるが、かといって世に広く流通させてよいとする刃物の線引きとはどこか?」なら、今回の楠木先生が提起した議論は「はさみって便利だよね」という話の中で、「世界に右利き用のはさみしかなかったら、左利きの人ははさみという道具の恩恵うけられないじゃん。もっと左利き用はさみを増やそうよ」というか。

たとえ話で逆にぼやっとしてもうた。

で、あの主張の中では少女漫画に対しては強く具体的な変革を望まれていますが、ほんの少し主語をずらした「少年漫画どうおもう?」については「今は変わっているといいな、と思います。」に留まっているともいえるし、noteの記事も「ジェンダーニュートラルな漫画誌が主流になったら」と「主流になったら」いう言い方をされてるわけです。

今のところ議論の枠組みの線引きはされてると、自分は判断しています。

また程度についても、楠木先生ご自身の言葉には「規制」も「禁止」もなく(「規制」はほんとになくて、「禁止」はハフポス記事内の見出しのみ)、「ジェンダーバイアスはなくなった方がいい」「滅びろ」については前記事を参照して各々ご判断ください。

もちろん、ハフポスの記事見出しには「禁止」とあって、当人だって本文チェックはしたんだろうからそれを通すのどうなの? という追求はあるでしょうが、それでも直接いった前提で話をするのは筋が違う。しかし、その筋で話が進みすぎていやしないか、とも感じるのです。

その発想を突き詰めればいつか規制や禁止にいつかたどり着くかもしれないね、と、この類のことを言ってるのだからそれはつまり規制を望んでいるに違いない、は違いませんかね。前者にあるものを、後者として話を進めるのは、主張の是非を論じる以前の問題でしょう。

自分で記事公開して思ったのは「想像していたのと違った」という類の反応が一定数あり、もちろんあの記事を公開することで、自分が「ちょっとこれは」と思った空気を少しでも変えたいと思ってのことだから意図通りではあるんですが、かといって別方向により過ぎないようにとも意識してて、その割に通りが良すぎる気もしていて。

個人的には終始「インタビュー記事を読んだ時の想像どおりの中身だった(品質は想像より全然上)」だったので、たぶん「記事も中身も真意も想像通りだったし、それでもだからこそ」って人も一定数いる。いると思うけど、この反応を見る限り、あの話題で盛り上がった人たちみんなが本当にそれだったか? というと疑問です。

この盛り上がり方について、あえて悪い方に考えを掘っていくと、軽く知っただけで「え、そんなだったの?」と思ったなら、それってその前段階として「俺の考えたこういうこと言うやつ」が頭の中にいなかったか? と思うんですよ。「そういうこと言ってる人は、こういうことやってんだろ?」ってやつ。それで別情報をみて見え方が改まるなら、これこそバイアスの弊害というやつじゃないんでしょうか。

別にバイアスが思考にしみついてるまでは、そんなもんでしょ人間、SNSが見えやすくしただけでしょとも思うけど、なんかでも、自分の観測範囲ではSNSがなくても一定の発信手段のあるだろう人ら、クリエイター職や研究職の人でも、あっという間にそれに飲み込まれたような感じが強くあって、それってどういう背景があるのか…? と考えると、今もアラートが頭の中で鳴っています。