見出し画像

協調性と同調圧力:コミュニケーションのねじれ

小学生のころ。

体育と図工を除いた、いわゆる「お勉強科目」だけを見れば、優等生だった私。とはいえ、田舎の小さな学校だったし、義務教育レベルですから、優等生になるのなんて別に難しいことではありません。

問題は、

学期末に渡される通信簿にある、担任の先生からのコメント:

「協調性がありません。もっとみんなと仲良く協力しましょう」

これは子供心にも納得がいきませんでした。


協調性がない、ってどういうこと?

協調性(きょうちょうせい)とは異なった環境や立場に存する複数の者が互いに助け合ったり譲り合ったりしながら同じ目標に向かって任務を遂行する素質。 (Wikipediaから)

協調性がない、ということは、

・自己中心
・空気が読めない
・人の話を聞かない
・自分の意見を曲げない
・気遣いがない
・・・

だいたいこんなイメージでしょうか?

社会人として「協調性がある」というのは「チームプレイができる」ということにもなるんだと思います。
だから「あいつは協調性がない」と判断されると、「あいつはチームには向かない」「一緒に仕事をしたくない人」となってしまって、キャリア的には不利な感じです。

とにかく、社会生活において「協調性がない」と判断されてしまうと、何かと損なことが多そうです。


協調性ってそんなに大事?

一般的に社会では、協調性はないよりはあった方が良いのでしょう。

でも「過ぎたるは猶及ばざるが如し」とも言うように、協調性も行き過ぎれば、

・同調圧力
・同化への強要
・金太郎アメ
・抑圧体質
・押さえ込み
・同調思考
・右へならえ
・・・

といった、あまりありがたくないない方向になってしまいます。

この視点でみると「協調性ってそんな大事?そんなにいいことなの?」と聞きたくなります。

むしろ、独特の個性があって自己中心的な人の方が、アイデアが豊富だったり、信念があって行動力があるということもあるでしょう。


内向的性格=協調性がない?

私の小学校時代の評価に戻ります。

私はみんなと仲良くしてなかったわけじゃないし、クラスや班での活動でも、できる限りみんなと協力していた、と今でも心から思っています。

ただ、大人として改めて自分の幼少期をみると、問題は私の協調性の有無にあったのではなくて、他の子たちとのコミュニケーションにあった、と思うのです。

つまり、私のコミュニケーションの取り方が極端に下手だった、と。

例えば、

先生にちょっと生意気な口をきいてみる。
友達と軽い(ときに少し意地悪な)冗談を言い合って笑う。

そういう「子供らしい無邪気さ」を出すのが、とても苦手だったのです。

周りに嫌な思いをさせないように、
失礼のないように、

考える、言葉を選ぶ

だから、あんまりしゃべらない。

本が好きで、休み時間に図書館に1人でいることが多かったのも「協調性がない」という評価になった理由のひとつかもしれません。
「もっとみんなと一緒に遊びなさい」と。


「協調性」という秤

ひとくちに「協調性がない」と言っても、その背景は様々で、一概にその良し悪しは言えないと思うのです。

何事においても、真ん中でうまくバランスがとれていればいいのですが、ほんの小さな違いで「秤が傾いてしまう」。

コミュニケーションの不器用さには、いろんな理由があるはずです。
そこで、「あの人は協調性がないから」と言うのは、少し安直すぎるだろうし、逆に、話し上手な人だからといって、他の人より協調性があるというわけでもないです。

「協調性」と「コミュニケーションの取り方」は、実際には別のもの。

協調性は目標を共有して、その達成に向かって一緒に活動するところにポイントがあります。

私の幼少期のように、口数が少なめで、クラスでの活動(目標)は一緒に(むしろ積極的に参加)するけれど、休み時間(個人時間)をときどき1人で過ごすようなのは「協調性がない」とは言わないと思います。
「クラス活動も休み時間もいつもみんな一緒に」という考え方は、協調性を通り越して同調圧力へ向かっているのではないでしょうか?

人それぞれ、その人のコミュニケーションスタイルがあるのですから、それを「協調性」という概念で(ねじれた)捉え方をするのはどうかと思います。

その人の個性、そしてコミュニケーションの形をもっと尊重してあげることができたら、人間関係も今よりもう少し滑らかになるのでは?





20年以上の海外生活に終止符を打ち、2020年後半には日本へ帰国します。サポートは皆さんとお会いするときのお茶代として還元させていただきます。