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「自己診断テスト」と「才能」

セルフ・ブランディングという枠で「なりたい自分」をテーマに書いています。今回はその2回目で「自己診断テストと才能」です。

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世の中にはいろいろな自己診断テスト・性格診断テストがあって、私も幾つかそういうテストを受けたことがあります。
どれも多くの調査結果を基にしているだけあって「なるほど」と思う結果が出てました。
当然と言えば当然のことなんですが、「私」という1人の人間についてですから、どのテストでも似たような結果で、確かに私自身の「傾向」はよく出ているな、という感じです。(「内省的」だとか)

とはいえ、実はあるテストで全く両極の特性が同じくらい強く出て「あれ?」と思ったこともあります。
でも、だからといって矛盾しているとか、テストがいい加減だとは思いません。真逆であっても、確かにどちらも私の性格には合っています。
人間って、一面だけでできているわけじゃないですしね。

テスト結果をどう受け入れるか、というのは別として、こういうのも受けてみる価値はあると思っています。(野次馬根性的な意味でも、結果を見るのは十分におもしろいですし・・・)

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自己診断テストでの目的は、大きく分けて「知る」と「活かす」の2つがあると思います。「傾向と対策」みたいな感じ、でしょうか。

自分を知る

「私って○○な人なの」みたいな感じで、漠然と感覚的に自分を捉えている人は意外に多いのではないかと思います。
こうしたテストを受けると、自分の傾向に「名称」が付く(言語化される)ので、自己認識がし易くなりますし、テスト結果は(大抵は)ポジティブな表現になっているので、何だか褒められている気分になれます。

良い面と良くない面は表裏一体で、どちら側が出て来るか、というのは他の要素の影響も強く受けるので、結果を見て自嘲的になって「あー、はいはい。ものは言いようだよね」みたいに片付けてしまうのは、ちょっと残念な気がします。
せっかくポジティブに捉えてあるのですから、そこは素直にそう受け止めておいて良いと思います。(実際ポジティブだと思いますし)

ただ、こうしたテストで「ちょっと危ないかな?」と思うのは、テスト結果に「なりたい自分」が反映されてしまう可能性です。

自己診断テストですから、当然自分で答えているわけです。
そのときに、思い込みや願望、あるいは「こう反応すべき」といった「邪念」が入ると、結果も当然「その方向」で出てしまいます。
学生さんや転職希望の方が「適性診断」みたいな感じで受けるテストはそうなり易い気がするので、少し注意が必要かと思います。

せっかく「自分」を客観的に知るために受けているテストなのですから、痛いくらいに、ひたすら正直に答えて、自分を「知る」のは意味があると思います。

自分を活かす

一般的な性格診断でも「○○するようにしましょう」といった提案が出ますが、「活かす」という部分に特に焦点を当てると、チームビルディング向けや、リーダーシップ向けのテストなど、目的に合わせて特化されたテスト選びが有効だと思います。

自分を「活かす」ということは、他者との相関関係・相互作用の中で「生きる」こと、ではないでしょうか。
でも、置かれている環境は人それぞれなので、仮に自分の特性がわかっても、実際に「どう動くか」というのは、結局自分で考えるしかありません。
それでもテストを通して「こういうやり方が自分には合ってるんだな」というのがわかるだけでも、行動パターンはかなり違ってくると思うので、
「自分を活かしやすくなる」というのはあると思います。

ただ、ここでもまだ「自己認識」の段階でしかありません。
私は○○な人だ」というのに、「だから、私はXXする」という順接が来ただけで、主語・述語の関係が自己完結しています。

一般的にこうしたテストは「自己診断」というだけあって「自分視点」での捉え方になってしまうようです。

「才能」ってそもそも何?

ところで、この「才能」ですが、良く使う言葉のわりに、わかりにくい概念に思えます。こういう時は、まず辞書ですね・・・

物事を巧みになしうる生まれつきの能力。才知の働き。
「音楽の才能に恵まれる」「才能を伸ばす」
「豊かな才能がある」「才能教育」(小学館、デジタル大辞泉

これは、芸術やスポーツ関連であれば比較的わかり易い話です。
「SWAN」というバレエ漫画があるのですが、その中に名バレリーナであるアンナ・パヴロワがかつて「そんなに練習しなきゃいけないなら、私バレエが嫌いになっちゃうわ」と言った、という逸話が出てきます。この話が本当かどうかは別として、これなんかは圧倒的な才能を示した例でしょう。

こういうのに比べれば、性格的な部分を「才能」と呼ぶのは、少しわかり難いかもしれません。普通であれば「特徴」や「性向」と言いことが多いと思います。
要するに「あなたはこんな人」という感じの描写ですね。

前提として、基本的に自分が「楽にできる」ことは「才能」だ、と私は捉えています。
これは芸術やスポートと何ら変わりません。

例えば、将棋にとても強い人は(特に若ければ若いほど)「将棋の才能がある」と言われると思います。
でも、将棋はあくまで「才能が顕在化した場」です。
本当の才能は「集中力」、「洞察力」、「戦略的思考力」といった資質です

これを、もっとくだけた言い方にすると「考え込むタイプ。たまにヒラメキがある。集めた情報で何ができるかアレコレ想像するのが好き」みたいな感じになるでしょうか。
こう書くと、どちらかと言うと「性格描写」で「才能」のことを言ってるようには聞こえないですよね? でも、ここでの才能は「将棋」にあるのではなく、「考えるのが嫌じゃない(要するに「好き」)」、「いろんな可能性を想像するのが楽しい」というところにあるんです。だから、

「才能」と「才能の顕在化」の因果関係を間違えてはいけません。

(ちなみに、上記の大辞泉の解説ですが「才知の働き」というのは、ちょっといかがなものかと・・・。同様に大辞泉で「才知」を調べると「才能と知恵」となってます。「才能」の説明に「才能」を使うのって禁じ手じゃないんですかね??? 皆さん、どう思います?)

私の才能って何なの?

もしかしたら、自分で「私に特別な才能なんかない」と思っているかもしれません。でも、これは特に強調したいのですが、私は「才能のない人はいない」と思っています。

「才能」で誤解されやすいと思うのは「上手じゃなければ才能がない」という捉え方です。(大辞泉にも「巧みになしうる」と書いてますし・・・)

興味があって(好きで)何かを始めても、上手くいかないと「自分には才能がないんだ」と、諦めてしまうことがあります。
私もそういうの、たくさんあります。モチベーション下がりまくります。
一方で「下手の横好き」という言い方もあります。
全然上手じゃなくても楽しくて好きでずっと続けられる・・・そういう「何か」です。(上手だったら尚更良し、ですが)

この「何か」があれば、それは「才能」です

「楽しめる才能」という言い方をする人もいますし、「好きこそものの上手なれ」という諺もあります。
私は「才能があるから楽しい」、「才能があるから好き」だと思うのです。
楽しくて好きで、たくさん練習するから上手になる、というのはあると思いますが、「上手・下手」はあくまで結果であって、才能の有無の絶対条件ではないのです。

「なりたい自分になる」には?

「なりたい自分になる」という願望の根底にあるのは「幸せになりたい」という想いではないでしょうか。

「幸せ」という感覚は「楽しい」という感覚とかなり近いです。
そう考えると「楽しい時間を増やせば、どんどん幸せになれる」と解釈できませんか?
そうだとすると、「自分の才能」を知って、それを顕在化させる場、つまり「楽しめる場所・好きな場所」を増やしていくことが大事だと思うのです。

自分の「才能」に最も適した場所、つまり自分が「満たされる」場所ができたら、そこにいるのはきっと「なりたい自分」です。

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ちょっとここで補足なんですが・・・

「私って実はMか?!」と思ってしまうような、苦しくても辛くても「どうしてもやめられない何か」、「やらずにはいられない何か」ってありませんか?
それは、間違いなく「才能」です
その苦しみも「幸せ」のひとつの形だと私は思っています。

こうして文章を書くのが私は好きですが、結構苦しみながら書いていることも多いです。でもやめられないし、やめたくないんですよね。
だから、これはきっと私の「才能」なんだと思います。
(重ねて言いますが、上手・下手は関係ないので・・・)

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あなたは、

何をしているとき、楽しいと感じますか?
何をしているとき、疲れを感じませんか?
何をしているとき、エネルギーが内から湧いてきますか?
何をせずにはいられませんか?

コメントやメッセージで教えていただけると、とても嬉しいです。
良ければあなたの「才能」を教えてください。

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「なりたい自分になる、その3」はセルフ・ブランディングの意味みたいなことについて書きたいと思っています。

では、では!



20年以上の海外生活に終止符を打ち、2020年後半には日本へ帰国します。サポートは皆さんとお会いするときのお茶代として還元させていただきます。