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「泥中の蓮」、あるいは「輝ける自分」

私の大好きな花のひとつに、蓮の花があります。

蓮というと仏教を連想しますが、確かに蓮の花は悟りの象徴ともされていますし、お釈迦さまのお姿を思い浮かべると、蓮の花もセットでついてきます。お盆には欠かせないお花ですよね。

さすがに悟りまで行かないにしても、人としての「あるべき姿」の象徴として、「蓮は泥より出でて泥に染まらず 」、「泥中の蓮」と言われ、「どんな環境で育ってもそれに染まることなく清く正しく生きる様」の例えなのだそうです。(中国の儒教者、周敦頤の「愛蓮説」というのが出典のようです)

世の中にはいろんな誘惑があって、惰性で楽な方向に流れていくのは簡単だし、享楽的な生き方をしようと思えばできないこともありません。
ふとした折に、気持ちが拗れてしまって、妬み・僻み・嫉みに囚われてしまうこともあります。
才能のある人や成功している人をみると、どこか羨ましい気持ちは否めないし、自分が小さく情けなく思えてしまうことってありますよね。(そこはまあ、所詮人間ですから・・・)

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ネット上にもいろんな人がいます。

やりがいのある仕事をして生き生きしている人
同性から見ても可愛い・綺麗な人
センスのいい写真を撮る人
素敵なイラストの描ける人
博識でとても高い見識のある人
・・・

そうした人たちの写真や記事を見ると、皆さんそれぞれに成功していて、とても輝いて見えます。

でも、私たちが見たり聞いたりするのは、その人の「ハイライト部分」なんですよね。 言ってみれば、スポットライトの光が当たっているところを見ているのですから、そこが輝いているのも、眩しいの当たり前です。

思うのですが・・・

私たちはその人の「蓮の花」を見ているのではないでしょうか?
蓮の花は早朝、朝の光を浴びて、神々しいまでの輝きを見せて咲きますが、これもまさに「ハイライト」です。

誰しも、日々の生活の中ではごく普通に地味な部分が多いはずだし、そういう「外から見えないところ」でいろんな葛藤や苦労を抱えながら、すごく努力してると思うんです。
そうした「泥」の中から、自分が信じる方向に向かってたゆまない努力や工夫をして咲かせた「蓮の花」こそ、私たちがネット上で見ている、その人の姿なのではないでしょうか。

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成功して輝いている人の話だけではなく、例えばnoteでも、いろんな人が苦労した話や大変な想いをしていることについて書いています。
見ていると、とても個人的で、切ないお話が多い気がします。

中には「過去はこうだったけど今は・・・」みたいな感じで、仕事やプライベートで充実した生活を送っている様子を窺い知ることができる場合もあります。 そんな風に、良い結果になったお話だと「本当に良かった・・・」と、私まで救われた気持ちになります。(記事を読んでて泣けることってないですか? 私はよくあります)

良い結果になったものであれ、今現在頑張っている途中であれ、そんな記事を読んでいると「分けてくれて、どうもありがとう」と心からお礼を言いたくなります。
単に「お話」として「興味深い」とか「面白い」というのではなくて、そこに在る(だろう)「その人の想い」を文章にして共有させて貰えたことが、とても尊く思えるのです。

私たちが苦労話を見たり聞いたりして感動するのは、きっとそこに「泥中の蓮」を見出すからなのではないでしょうか。
蓮は「泥のような汚いところからでも咲く」のではなく、綺麗なお水のところではダメで、泥が必要なんだそうです。
それと同じで、全てが順調にいった人の話では、「よかったね」とは思っても、きっとそこまで感動しないでしょう。

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どんなに厳しい環境にいても、
どんなにネガティブな想いに囚われても、
自分が今ここにいる意味を考えて「最善の自分」になる努力をしていくことが大事なんだろう、と思います。

いつか自分の「蓮の花」を咲かせられたら、
それはとても、とても幸せですね。



20年以上の海外生活に終止符を打ち、2020年後半には日本へ帰国します。サポートは皆さんとお会いするときのお茶代として還元させていただきます。