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"意味"を楽しむ

好きなラッパーのGADOROが、「PINO」という曲を出した。

その曲が好きすぎて、この夏お風呂上がりに食べるアイスはほぼピノだった。ピノ自体は全く変わってないのに、ピノを食べるだけで勇気が湧くし、他のアイスとは違う特別な味がする。その理由をずっと考えていた。

「PINO」という曲によって、僕の中でピノには、チョコレートに包まれたミルクアイスということ以上の“意味”が付与されたんだと思う。金のネックレス付けてビキニのお姉ちゃんをはべらせて遊ぶなんてクソだ、ピノでも食べて平凡に暮らそうというGADOROのメッセージもアイスと一緒に摂取していたってことだ。

GADOROの「PINO」を知らない人からしたら僕がピノに特別な意味を感じてることは理解できないだろう。だってピノ自体は何も変わってなくて、それを食べる僕が勝手に"意味"を見出してるだけだから。GADOROももちろんピノのプロモーションをしたくてあの曲を書いたわけじゃなく、ただ彼のリアルをあのアイスに託しただけだろう。なのに僕はピノを食べるだけでこんなに勇気が湧く。

これはピノに限ったことではない。”意味”というのはすごく広義で、自分だけが肯定できていればいいと思う。聖地巡礼とかも、その場所自体は変わっていないのに、後から何らかの作品によって意味が付与されることでその場所はその人にとっての「聖地」になる。その”意味”は他人に理解される必要はないし、だからこそその意味を共有できる人同士なら共感による喜びは深い。

逆に考えると今自分が理解できないことにも歩み寄れる気がする。カクテルグラスに入ったタルタルソースにブッ刺さったエビフライ、シャネルの紙袋で顔を隠して撮った写真、性行為についてSNSであけすけに語るのが面白いみたいな価値観。自分じゃ理解できないことだけど、それが好きな人は本人にしか理解できないし、他人に理解される必要もない“意味”を見出してるのかもしれない。

これに気づいたのは自分にとってかなり大きい成長だと思う。食べ物にしても服にしても行く場所にしても、それそのものだけじゃなくて付随する“意味”を楽しむという価値観。自分の行動を豊かにすることにも、他人の行動に寄り添うことにも役立つ。

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