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Io sono straiera in Italia. La apparenza, la lingua sono completamente diversi. 私は外国人です、外見も全く異なります。


「私は、外国人です。あなた方とは見た目の全く異なる東洋人です。」   街で人とすれ違う時はいつでも、心の中でこう呟いている。  

目と髪は黒く、小柄で、黄色い肌。見た目からは、とてもイタリア語が母語であるように見えない。たとえ20年住み続けてイタリア語を流暢に話しても、「あの人は日本人だけど」、という注釈がなくなることはないだろう。   それほど、異なる外見であるということは、違和感の決定的な要素であるように思う。  

硬い石畳のガタガタの道を足元に注意しながら行く度に、建物の重いドアを体重をかけて開ける度に、救急車の野太い音のサイレンが頻繁に鳴る度に、叩いたら手のほうが痛いくらいどっしりと厚い壁に触れる度に、ここは日本から文化的にもとても遠いのだと感じる。

学校で、ヨーロッパ人と一緒にイタリア語を勉強していると、ヨーロッパの言語の類似性や、生活スタイルや考え方の共通性を改めてよく感じる。彼らは、他の言語ならどう表すかをある程度お互いに知っているので、言葉のニュアンスや生活の仕方の違いと共通点を見つけて楽しむのは、よくある風景だ。  このやりとりを見るにつけて、日本語は、インド=ヨーロッパ語族の言語からとても遠いところにあって、言葉には全く関連性がないと思い知る。

これは当たり前のことである。しかし、実際に住んでいると、見た目と言語の隔たりは、ほとんど感覚や知覚の全てであるように思えてくる。      そしてこの思いは一秒たりとも頭から離れることはない。         常に頭と身体に「圧倒的な違い」という負荷がかかっている状態なのだ。  もちろん、この感覚を求めてイタリアに来たのだけど。

まるでもう一つ別の世界があるようだ、いや、多分、実際にそうなのだ。       であれば、異なる言語体系を学ぶことは、とてもいい思考の訓練になるはずだ。

…そう自分を納得させて、一生かけても母語の位置を占めるまでにはならないだろうイタリア語の勉強に戻る。


**雑記**

ヨーロッパの人が他のヨーロッパの言語を学び、3,4か国の言語を話すことはままあるけど、彼らのうちどの程度が、インド=ヨーロッパ語族以外の言語を学んでいるのだろうか。    

これが関係するのかどうか、授業でイスラム国の話になると、ヨーロッパ圏の言う民主主義やイスラームに対する考えと、アジア(このクラスにはヨーロッパとアジア以外の地域の生徒はいない)圏の私(たち)からみたそれには、隔たりがあると感じることが多い。彼らの多くは、ヨーロッパは民主的で、民主主義は完全ではないけれど一番ましな政治制度で、世界の国々もそうあるべきだ、あってほしい、我々がイニシアチブを、と考えているようだ。私達、とかれらが言うときの主語は、ほとんと「ヨーロッパ」である。

この態度に何かの違和感を感じるのだけど、これはもう少し勉強したら書きたい。                

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