塾で国語を教えていて思うこと
大学2年生の夏、私は、過去にお世話になった学習塾のアルバイトに応募しました。
無事採用された私は、家の近くの校舎に配属されました。本当は数学を教えたかったのですが、理系の先生が多かったこともあり、文系科目を中心に教えています。
さて、中学生に国語を教えていると、しばしば思うことがあります。
それは“論説文が苦手な子は、文章を噛み砕き、具体化して考えることが苦手なのではないか”というものです。
論説文とは、筆者が、自分の主張や見解を、筋道立てて論理的に説明する文章をいいます。
なぜこう思ったか。それは、私も論説文が苦手だったからです。
今でも活字を読むのはあまり得意ではありません。それは、”文章を噛み砕き、具体化して考える”という行為を、意識しないと行えないからです。
読書をしていると、私はときたま、同じページを読み返すことがあります。それは文章をきちんと咀嚼できておらず、筆者の主張を掴み損ねてしまうためです。
視界で捉えた情報が、右から左へ流れていってしまうのです。
話を戻しましょう。論説文を教える際、私は生徒に対して、こんなことを話します。
“論説文を読む際には、自分のことに置き換えて読みましょう”
ここでひとつ、例文を取り上げます。
これは、私が働いている学習塾の教材に登場した論説文の一節です。”近代社会の人間観”について述べられています。
私はこの文章について、以下のように解説しました(若干の脚色はありますが)。
”君たちには将来の夢がありますか?今の時点ではまだなくても、いつか進路を選択する時が来ます。その時は、親や先生に言われたから選ぶ、のではなくて、君たち自身のやりたいこと、得意なことを、君たちの頭で考えて選ぶ。これが大切なんだよと、筆者は述べているわけです。”
人は経験でしか物を語れません。事実、私が上のように解説したのも、私自身が自分のことに置き換えて論説文を読むようになった結果、筆者の主張を掴めるようになったからなのです。
100人生徒がいれば、100通りの文章の捉え方があり、100通りの選択肢の選び方があります。その点で、国語を教えるのはとても難しいです。しかし、自分の指導で生徒が何かを掴んでくれた時は、ほんとうに嬉しく思います。
そんなことを考えながら、私は今日も教壇に立つのでした。
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