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滋賀まんぷく日記 67-69/369

 NPO学会大会に出席するため滋賀に滞在したけれど、報告は二日目。一日目は家族のすすめですこし休むことにした。日本に来てから思ったより忙しくて、ろくに眠れていなかったのもあり、すごい寝てしまった。働いたら働いたで疲れるが休んだら休んだで罪悪感がある。

 夜はお世話になっている先生とご飯を食べた。日本滞在中にずっと聞いていること、ちゃんとした研究者とは何なのかということ、研究者が研究じゃないことをすることについても聞いてみた。「ちゃんとした」という基準を追い求めること自体が問題なのでは?と諭され、「富永さんスト破りみたいなとこあるからね...」と言われてギクッとする。凡人なので、ノルマや成果といった、自分で自分を縛りつけようとする。「ちゃんとした」ということにこだわって、それを達成できていないと余計落ち込む。自分だけならまだいいが、自己規律を通じた他者規律みたいなものと合わさったら、人にまで迷惑をかけたり傷つけたりすることになる。そうならないために、あまりこだわらないほうがいいのかもと思ったりもした。
 後者については、表に出て発言するということは、ある種の運動実践として必要なんじゃないか、というお話だったが、その中で出てきた「社会運動の先生」という発言に感じるところがあった。
 社会運動の研究をしている人は、たまに「研究の先生」と「社会運動の先生」という言い方をする。そして、「社会運動の先生」は当人が運動をしているといないにかかわらず存在すると思う。私にもいる。
 ただ、私の社会運動の定義自体はある頃からものすごく広くなったから、誰もが「社会運動の先生」になりうる。ゼミ生のやりとりからも、講演の聴衆の方々の質問からも、活字になった自分の言葉を直してくれる方々からも、やっぱり私は社会運動を学んでいる。多様性に配慮した表現や、親しい仲の友達や家族に対して過ちを指摘するやり方も、私にとっては社会運動で、研究や調査で見てきたものとは異なる運動がそこにある。それはとても新鮮で、新しい社会運動のやり方を学べる時間をとても放棄できない、という気持ちが強いのかもしれない。そういう意味では、たまたま教員になり、いろいろと表に出たり物を書いたりする誘いがあったからそこで社会運動を学んでいるだけで、じつはタイミングさえ合えば起業でも育児でもよかったのかもしれない。

 日曜日はNPO学会大会二日目で、「社会運動研究とNPO研究の差異を考える」という主題で報告した。私の報告はいつもどおりイマイチだったけれどコメンテーターの先生のコメントや他の先生の報告がとても勉強になった。私の報告は、組織が組織である建前がなくなりつつある時代の社会運動がどうなるかといういつもの話に戻ってくる。そういう分断を先行研究は階層や集合的アイデンティティの視点から描いたけど、かりに階層や出自が同じでもばらばらにならざるを得ない。私はどちらかといえば参加者のモチベーションからその課題を見てきたが、他の先生の報告を聞いて、参加者間で対抗性のあらわれ方も違うのか?と感じた。この話は、次の週の研究会報告でも議論することになる。
 M1の頃の報告で「そもそも社会運動において連帯しなければならないという前提自体がどこから来ているのか探る必要がある」ということを指導教員の先生に言われたことがあったけど、それを思い出したりもした。

 せっかく関西にいるので、家族と同僚(であり師匠)と湯葉を食べた。写真は湯葉でございます。月曜日に帰国して、その日の夜にウィーンに到着した。

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