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東京・大阪・京都まんぷく日記 61-63/369

 新宿で起床して、前日レイトショーで見る予定だったが見られなかった『愛がなんだ』をテアトル新宿で観た。幸せでは全然ないのだが、変な推進力があって面白い作品で、「失恋」した人に観せたくなった。「恋に恋する」という言葉がある。ようは相手そのものというより、自分と相手との関係性に陶酔しているという意味だと思う。相手との別れが見えたとき、関係性のほうを放棄するか、相手のほうを放棄するかのどちらかの選択肢があり、関係性のほうを放棄した話ということになる。「失恋」した人に見せて、あなたならどちらを放棄するかと聞いてみたいと思った。詳しい感想は。こちらに書いたので、読むことができる人はぜひ読んでみてください(https://digital.asahi.com/articles/DA3S14039557.html)。この日の午後は四谷で行われる研究会に行った。ほとんど研究ができていないので顔を出しづらかったんだけど、自分の本が引用されるご報告だと言うので行ってきたが、すぐに他の予定が入ってしまったので中座してしまって、かえって失礼だったかもしれない。これもまた週末のNPO学会で議論になるが、「どこまでが社会運動で、どこまでが社会運動でないか」という外縁を、社会運動の研究者が共有しているほど他の人が共有していない問題がある。多分そういう問題をすっ飛ばしても論文は書ける。でも書いていいのかどうか......。「対象はともあれそこから見えるものが大事なんです」といってもいいのかもしれないけど。夜は誘ってもらった飲み会にお邪魔して、全然ご縁のないゼミの卒業生の方々の会だったけれどとても楽しかった。

 翌日は都内からすぐに関西に戻って、病院に寄り、大阪茨木キャンパスの読書会と資金調達お話会に行く。読書会では、野間教育研究所紀要『青年の自立と教育文化』を読むが、地位達成を伴わない勉学に対してモチベーションを持ち続けることが出来ず、市民大学の試みが頓挫してしまうあたりはなんとなく自分のドイツ語学習とかぶってえらく共感してしまった。資金調達お話会は、若い院生さんが参加者に多かったこともあり、玄人向けの話もちょいちょい出つつ、細かいところや基礎的なところを再確認できたのはすごくよかった(そのうち議事録をアップします)。むかし東大でお世話になった先生が、「資金調達は自分ひとりのためじゃなくて、自分の研究している分野のプレゼンスを示す上でも大事。特に他分野と競合するような資金では」と仰られていて、自分はまだそういう広い視野から物事を見れていないけれど、そういったメリットも話すことがいずれできればなと思う。飲み会も楽しかった。

 翌日はまた東京へ。都内に向かう前に、京都で学生さん向けの媒体と、主婦の方向けの媒体の取材(この日以降取材が連続して入るので記憶が曖昧だが……)。すごく嬉しかったのは、「この雑誌の読者の方にとって、『わがまま』ってお姑さんに対するものだったり、ママ友に対するものだったりします。そういう人たちに向けての『わがまま』ってどう言えばいいでしょうね?」と言って頂いて、それについて編集者さんと一緒に考えられたこと。私だって、そんなわがまま、この本を書いているときに想像したことがなかった。ただ、この本の編集者さんが、私の本を読んで、そういう「わがまま」も読み解けるんじゃないかと思って下さった結果だろう。これは研究も、学生さんもだけど、本は自分の思いもよらなかったところに自分を連れてってくれるから、そして色んな人の悩みや喜びに触れることができるから、だから嬉しいのだ。

 都内に戻って、分野の違う先輩たちとの飲み会に参加した。ここでも「なぜ研究者がメディアに出るのか」という質問をした。プライベートな飲み会なので、あまり詳しいことを書いてはいけないと思うけど、「ちゃんとした研究者がメディアに出ないと、適当な知見が流通してしまうから」というご意見だった。このお答えは以前も他の先輩から聞いたことがある。
 先輩たちに関して言えば、それは十分当てはまるだろう。でも私は「ちゃんとした研究者」とは言い難い。招待講演や依頼論文に気を取られて、査読論文や学会発表の数はどんどん減ってきている。資金獲得だけはばかにうまいけど、それに応じた成果を出せていると言い難い。もちろん、査読論文や学会発表をしない先生でも「ちゃんとした研究者」はたくさんいるけれど、自分にその基準を適用できない。
 いずれにせよ、メディアがどうこうの前にちゃんとした研究者になる(でいる)必要があるが、でも「ちゃんとした」って?というところで、いつもそれって何なんだ、となる。この話に関しても、この一週間でいろいろな先生に質問することになる。

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