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夫の両親に嫌われる勇気

僕の友人にYという女性がいる。今日彼女とお昼を食べていて、とてつもないこの世界の明るい闇に触れてしまった。その闇というのは、結婚した相手の家族が仲が良すぎ、それに彼女は全く乗れないのだが、目白押しのイベントに日々突っ込まれるという――聞いているだけで身の毛のよだつ話だった。

ひとはなぜこのような、親族内同調圧力によって、義父に一万円くらいするポロシャツを渡すに至るのだろう。そこには根深い問題がある。今日はこの家庭内の闇に、匍匐前進で入っていきたい。

まずだが、僕の友人Yは優しすぎる。そしてこの親族的同調圧力の餌食になるのは、このような優しい心を持つ女性たちなのだ。彼女は「みんないいひとなの」と言う。しかし僕から見ると、彼女はある意味で絶望している。その旦那の家族。仲良しこよしでべったべたに引っ付いている他人の家族に、全然気分が乗らなくて白目なのだ。

向こうの母親は彼女に優しい。いじめられたりもしない。彼らはいいひと。しかしYはその家庭のなかで、食卓の中で虚無を箸で掴んでしまうのだ。(木の箸が小さなブラックホールを持ち上げていると考えてください)。

これは僕の推測に過ぎないが、Yはこの家族と致命的に相性がよくないのだろう。いや、致命的によくないというか、よくないわけでもない。ただ単純に、彼らになんの興味も持てないのだ。

はて? なぜ彼女はこのような地獄の家族イベントに出席させられ、最低の休日を過ごしたあとでそこを去ることになるのだろうか。答えは簡単、彼女が優しすぎ、Yの夫の家族がいいひとたちだからだ。

Yは夫の家族が嫌いなわけではない。ただ純粋にいっさいなんの興味も持てない。朝の4時に流れている海の映像みたいに、彼らになんの面白みも見出せないのだ。しかし優しすぎるがゆえに、「つまんねー奴らだな」とは言えない。彼女はにこにこして、お料理の手伝いをしたりして、彼らに嫌われないように振る舞いつづけるのだ。

僕が思うに、Yはある勇気を持たないといけない。それは世間で俗に言う、嫌われる勇気というやつだ。

相手の空気に合わせているだけでは、状況は何も変わらない。ただ自分が感じているありのままの感情、「まじつまんないんですけど!」というのを彼女は極太の筆で義理の両親のリビングの壁に描かないといけないのだ(やらないで下さい)。

なぜ日本人というやつは、こうも自分の意見を殺して空気を保とうとしつづけるのだろう。言語でパキッと相手に伝えなければ、相手もそのことがわからないではないか。やはり日本人はもっとちゃんと主張しないといけない。

「すいません。私はこのひとと結婚しましまけど、あなたたちのご家庭の仲の良さには全然乗れません。だからあなたたちの家庭のイベントにも出ません。年の長い休みのときに数日間だけ笑顔で耐えるので、あとの時間は放っておいてください。よろしくお願いします。追伸。私はみなさんのことが嫌いなわけではなく、ただ単純に興味がないだけなんです。」

Yはこのようなメールを相手のご両親に送るべきなのだ。そのメールが開かれたとき、相手のご家族はYの文句を言いだすだろう。ふふ。言わせておけ。嫌われることで、日々会いたくもない人間と会わずに済むのだ。最高の結果ではないか。

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