「善き労働」とはなにか?

ども。みなさん。クリスマスだかお正月だかなんだかを(書いた後でしばらく放置しておく癖があるので、この文章がいつ投稿されるのか僕には分からないのです)いかがお過ごしでしょうか。僕はいつものように朝から15kmのランをし、その後プールで2km泳ぎ(しかもバタフライで)帰りは25kmの帰り道をロードバイクで走っている――訳もなく。朝からアート・テイタムのピアノを聞きながら、この文章を書いています。

文章を書くとき、本来ならまえもって書くことを決めていることが多いのですが、今日は冒険的に、目的なく書いてみたいと思います。筆が走りそうなとき、僕はそれがなぜかいきなりわかります。「今日は筆が走りそうだ、だから自由に書いてみよう」そんな風に思うわけです。

とは言ったはいいものの、一度筆を置いたりなんかして、文章の入口を見失うと、途端にこのエッセイの先行きに暗雲が立ちこめてきます。僕という趣味としての執筆をする人間は、「あれ? 今日の入口どこだっけ?」そう呟きながら、霧の濃い道を勘で車を走らせることになってしまう。

それでもアクセルを踏み込んで車を走らせると「ああ、こっちかもしれないな」そんな風に道は一応つづいています。アクセルを踏むから道がみえてくるし、道がみえてくるからアクセルを踏む。自由に文章を書くことの楽しみは、たぶんこういうところにあります。

いつもいつも人から言われたことだけをやっていると、こういう気持ちは簡単に失われてゆきます。うえの人や、社会や、関係者が「こういうのお願いします。納期までに」そう言ってくるので、時計を見ながら、せっせとアリクイみたいにそれを作るわけです。べつにやりがいはない。ただ言われたことを、言われた刻限までに、言われたようにやる。

こんなことばかりしていると、たぶんひとはそのことに気づかなくなってゆくでしょう。「仕事とはそういうものだ」と思い始め、そのストレスを金曜の夜の街で、千鳥足でゲラゲラ笑いながら発散を始める。こうなってしまうと、何かが決定的にまずいな、と僕は思います。いやそうなりやすいんですけどね。社会の性質上。

けれど思うんですが、納期までに言われた通りのことを50個も100個も作ったとして、それってほんとに価値があることなんでしょうか。寧ろ価値がないことに自分の時間を突っ込んだだけで、誉められるべきことなんて何もしていない気がします。しかし誉められないことばかりしている人間の大群に囲まれると、そういうことこそが、価値のあることなんだ――という錯覚を起こしそうになるのだから、不思議なものです。

うーむ。
文章がエッシャーの絵みたいになってきました。

ふうむ。つまりほんとの善き労働というのは、ムダなものを生む行為のなかにある気がしますよね。だからたまに通販で、高枝切りバサミみたいな、ムダじゃないものを売っているときがありますけど、あれは善き労働ではないんです。だって高枝切りバサミはムダじゃないですからね。「高い所にある枝を切りたいな」そう思っているひとのニーズに応えている訳ですから。

だから高枝切りバサミを売ろうとするひと、高枝切りバサミを作るひと、高枝切りバサミを注文するひと、高枝切りバサミを電話で承るひと、高枝切りバサミをパッケージするひと、高枝切り……

これに関わったひとは、みんな「善き労働」はしていないわけです(いや全員が善き労働をしているという見方もできますが)。つまり善き労働は、愉しき労働は、ムダのなかにしかないわけです。

では。
この曲でお別れしましょう。



いやあ。この曲ムダですねえ。
だから好きです。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

note.user.nickname || note.user.urlname

ありがとうございます。サポートやスキしてくれると、とてもうれしみが深くて溺れてしまいます。深い海の底に落ちてしまいます。どもです。

(^_-)-☆ヘイ、バディ
15

野宮 直喜

Φラヂオ

日々考えていること。 2018.12 〜 2019.7
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。