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良い悪口、悪い悪口


「悪口を言ってはいけません」

 小学校の道徳の授業で習うような、人として当然の倫理。だけど実際の世の中は悪口であふれている。リアルの会話や週刊誌・バラエティ番組などのメディアもそうだけど、特にSNSなどの匿名の場ではさらに悪口はごった返していて、そのことは目に見える以上にたくさんの人が悪口を好んでいる、という事実を教えてくれる。小学生でもダメだと知っている、そんな悪口をみんながつい言ってしまうのは、やはり悪口が強力なエンタメ性を持っているからだろう。日頃の鬱憤を悪口として吐き出すのは爽快だし、良くも悪くも過激なものはそれだけで面白さがある。お笑いのツッコミだって捉えようによればボケの人の落ち度を責める悪口だ。僕の中学時代を振り返っても、部活終わりに友人と夜の公園にたまって学校の先生の悪口を言い合っていたのが一番楽しかった思い出である。……本当に誇張なく僕にとって一番楽しかった思い出なんだけど、客観的に見てこれってやばいんですかね? 無自覚のうちに自分が暗黒の中学時代を過ごしてしまっていた気がして不安になってきた。

 とはいえ僕も悪口を全面的に肯定しているわけではなく。ただそれは倫理的な観点というよりは単純に快不快の問題で、同じ悪口でも顔がにやけてしまう悪口と顔をしかめてしまうような悪口、どちらもあると感じてるからだ。なのでこれからそんな「良い悪口」と「悪い悪口」の差異について考えてみようかなーと思っている。ややもするとこれは悪口を推奨してしまうような行為に思われるかもしれないが、僕にとってそういうつもりは全くなく、なんならただ単に「悪口を言ってはいけません」と言ってもどうせみんな悪口を言うんだから、それじゃあ悪口をどういう風に言ったらよいのかを考える方が、「ナイフを禁じるのではなく、ナイフの使い方を教える」的な感じでむしろ教育によろしいとすら思っているんですけど。違いますか? 違いますか。そうですか。



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「良い悪口」について


 とりあえず、僕が好きな悪口、「良い悪口」について考えてみる(好きな悪口っていうのもやべーし、自分の好き=良いというのもやべー思想だと思われる方もいるでしょうが、これは便宜上そう言ってるだけで、これまではずっと個人の主観です。そんでもってこれからも)。僕が今まで見聞きしてきて、「良いですねぇ」と思った悪口の共通項を探してみると、「面白い」「笑える」と感じられるようなやつだった。でもそれじゃ元も子もないので、じゃあどうしてその悪口が「面白い」「笑える」のかっていうのを考えてみると、「悪口を言っている人の位置が低い」からじゃない? という仮説に辿り着いた。昔、TBSでやってたバラエティ番組『リンカーン』の「朝までそれ正解」っていうコーナーが好きだったんだけど、そのなかでも特に面白かったのが、松本人志がとんちんかんな回答をした後に、他の人の回答に難癖をつけまくって自分の回答を正解にしようとするくだり。あれが悪口かと言われたら微妙だと思うんだけど、「良い悪口」に通底する要素が含まれてると思う。

 つまり、悪口を言っている側が不利な状況にある場合。悪口を言われている側は悪口を「こいつなに言ってんだよ~」的な感じで余裕をもって受け止められて、悪口を言っている側が足掻いている様子に滑稽さというか、おかしみを覚えることができる。だから悪口の受け手も不愉快な感じはあんましないし、悪口を言うほうだって、実際場をコントロールしているのはこっちなんだから、それを自覚ができれば気持ちよくなれる。そうなると全員が幸せになることができる、魔法の悪口の出来上がりだ。例に出した「朝までそれ正解」のくだりも、あれ、松本人志の回答がすっとんきょうだからこそ笑えたんだよな。逆に宮迫博之が良い感じの回答出したあとに他人の回答にケチつけてるときは、申し訳ないけどちょっとヤな感じがしてしまった。
 
 それに付け加えるとしたら、やっぱ凝っている悪口は面白い。普通に気が利いてて面白いってのもそうなんだけど、悪口という下衆な言語に無駄に語彙が発揮されているのには、くだらないものに不釣り合いな労力を費やすことと同じおかしさがある。あとこれは結構重要なことだと思うんだけど、悪口を凝れば凝るほど、捻れば捻るほど、悪口の対象の実態とは遠ざかるから、結果的に悪口の相手を傷付ける機能は低下するのでは、と感じており。悪口を凝るという行為は悪口の内容を具体化することを伴いうるが、具体化すればするほど特定の個人を傷付ける可能性は低くなるはずだ、と思うのだ。例えば、「口が臭い」と言われるより「もしかして今ドブ川味のミンティア食べてますか?」と言われた方が、後者の方が事実ではないからダメージが少ない、みたいな。……いや、別に前者でも後者でも、俺が言われたらその後の人生死ぬまで、幾度となくその言葉を思い出し、その都度泣いてしまうだろうな。ええと、これは僕の悪口力(わるぐちぢから)が足りなかったからしっくりこない例になっただけで、方向性は間違っていないような気がする。そんでもって人を傷付けないような悪口なら、気兼ねなく笑えていいんじゃないでしょうか。




「悪い悪口」の話


 ならば「悪い悪口」というのはさっきの逆、すなわち「悪口を言うやつが偉そうになってる」悪口ということになる。基本的に悪口っていうのは、世に憚られる行為なわけですよ。なので悪口を言うやつってのは、場で一番のゴミクズゲボカス掃き溜め野郎(口に出してみるとリズム良くて結構気持ちいい。周囲に人がいないときにやってみてください)として認定されるべきなのだ、本来は。でも、悪口を言う奴が攻めてる側というか、上の立ち位置に立ってる場面も、割とあって。そういう人の悪口って、個人的にはなんか笑えないんですよね。悪口といえば芸人の有吉弘行がまず思い浮かぶけれど、毒舌で再ブレイクしたときの有吉弘行ってかなりのゲスヤロー扱いで、お前何失礼なこと言ってんだ! って周りから激しいツッコミを食らいながら、それでも捨て身で突っ込んでく姿に皆が笑ってた、みたいな、まさに「悪口言う側の立場が低い悪口」だったと思います。でも今って有吉弘行はかなり偉くなって、なんならご意見番みたいな感じになっちゃったから、悪口が下からの悪口から上からの悪口になった気がするんですよ。そういう人が言う悪口には圧力が生まれて、「さすが○○さん、鋭い!」とか「自分もそう思ってました!」みたいな、周りが同調するタイプの悪口になりがちで、そうなるとあんま笑える方向には行きにくい。こういうタイプの悪口って、多数の強者が正義を振りかざして弱者を叩く、みたいな構図に陥りそうで、本当に傷付く人が出てきそうだし、そうじゃなくてもそういう多勢に乗っかるみたいなのはなんかダサいじゃないですか。SNSとかで炎上している人を叩くコメントとか見たときも、そんな感じのイヤさがある。こういう、悪口を言う人が権威を持っちゃった、みたいな悪口ってのが、僕にとっての「悪い悪口」です。で、それよりもキツいのは、「悪口を言う人が権威を持ってない癖に権威を持ってると勘違いしてる」場合の悪口。権威を持つ人の悪口に関して言えば、なんなら周囲に非がある側面もあるけれど、こっちは完全に本人に難がある。俺性格悪いんすよ、あたし毒舌なんですよみたいな、ただ人間としての程度の低さを示すだけの要素をなぜか誇り、技巧もユーモアもない悪口を場も窺わずにまき散らして、そんな自分に酔いしれてる、そういう奴が一番やべーと思っている。こういう人が言う悪口って、笑いも共感もどっちも生まないからね。そういう人がいたらパンチしましょう。顎ですよ。くれぐれも顎を狙うのです。



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 以上を踏まえ、僕も悪口を言うときは、自分が場で一番のカス野郎だと意識するようにしてるし、聞いている人には僕の発言を、知能を持たない下等生物の鳴き声がたまたま人間の言葉のように聞こえるだけで何の意味も持っていないと解釈して欲しいと思っていますが、じゃあそれが免罪符になるか、つまり自分の悪口によって誰かが傷付いたときの責任を負わなくていいことになるか、と言われたら、それは違うんですよね。僕がどんなに頑張って「良い悪口」を言ったとしても、それを「良い悪口」か「悪い悪口」かを判断するのは、あくまで聞き手なわけだから。こういうふうに悪口について色々考えると、悪口というものが特に、相手の感性に依存する言語なのだと改めて実感する。悪口でウケる、特に権威を持ちながら悪口で笑いを取れるのは、それこそ芸人や噺家などとんでもない技巧を持っている人間に限られてくるわけで、それを持たぬ凡人はおとなしく悪口以外のコミュニケーションを用いる方が無難なのだろう。「サーティーワンの好きなアイスでドラフト会議」とかね。うん。そっちの方が平和だし健全だ。



 ……ほら、冒頭に言及したように、悪口についてよーく考えることで、悪口を避ける健全な精神を手に入れることができたじゃあありませんか。めでたしめでたし。この文章を道徳の教科書に掲載したいという教育系の出版社の方々、ご連絡お待ちしておりまする。




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