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サイゼリヤ論

 サイゼリヤが好きだ。多いときは週に3回くらい行っていた。イタリアの国旗の色はサイゼリヤの看板の色を模しているのだと思っていた(どうやら逆らしい)。正直、人類の9割がサイゼリヤのことが好き(残りの1割はまだ行ったことがない人)なので、わざわざ自分が声高に主張する必要はないとも思うのだが、何事も好きな理由を言語化するのは案外難しく、そして案外大切なことだと感じているので、自分なりにサイゼリヤの好きなところを言葉にしていこうと思う。以下、僕のサイゼリヤ論。



サイゼリヤの好きなところ①料理

 いきなり矛盾するようだが、僕はサイゼリヤの味自体は特別好きなわけではなく、まあ、普通に、美味しい、ってなくらい。ただ、料理の点数というのは料理の味だけでなく、自分自身の調子にも左右される。同じチョコレートを食べても、その甘さが体に染み渡るときもあったり、甘さがくどく感じて辟易するときもあったりする、みたいな。特にラーメンみたいな味付けの濃い食べ物は、日によって100点近い点数を叩き出すこともあれば、赤点を取ってしまうこともあるような、そんなハイリスクハイリターンな食事である(と、僕は思っている)。そして少なくとも自分の場合、シチュエーションによる補正は食べてみるまで分からないことがほとんどなので、食べ終わったあとに「今日はカレーの日じゃなかったな……」とか思うことがしばしあるのだ。その点サイゼリヤの料理の癖のない味付けは、めちゃめちゃハマることはないけれど、体調によって味が大きく変動するような事態になることもなく、保守的な僕の性格にマッチしている。僕がサイゼリヤに行くときは大抵「今日はサイゼリヤ行くぞ!」という"攻め"のサイゼリヤではなく、「今日何食べようか迷うから、とりあえずサイゼリヤ行くか……」という"逃げ"のサイゼリヤだ。でもそんなヘタレな僕を、サイゼリヤは温かく受け入れてくれる。ありがとう、サイゼリヤ。

 あと、野菜を摂れるのもよい。より正確に言えば、野菜を摂った気分になれるのが、だが。外食する際の、自分の体への罪悪感を和らげてくれる。僕はだいたい「辛味チキン」と「キャベツのペペロンチーノ」、もしくは「やわらかチキンのサラダ」と「パルマ風スパゲッティ」の組み合わせを頼んでいる。ファミレスに来てる分際でちょっと健康に気を遣おうとしている感じが小賢しい。毎回同じ注文ばかりしている自分自身に芸が無いように感じ、いつも頼まないような料理を頼もうか、なんて考えることもあるが、「そもそも自分はサイゼリヤに逃げ込みに来た身分なのだ」、ということを思い返す。そんな自分が"攻め"の注文をしてしまっては、"上京したものの夢破れて帰ってきたくせに、地元でふんぞり返っている嫌な奴"と同じようなことだから、僕は立場を弁え、おとなしくパルマ風スバゲッティを注文することにする。


サイゼリヤの好きなところ➁価格

 サイゼリヤの料理のほどんどは、"税込みで"~99円という価格設定になっている。消費税別の価格表示ばかりで消費者を欺かんとする悪意で充ち溢れる昨今において、サイゼリヤは"税込みで"~99円にしているのである。普通の店なら税別~99円にしているのではないだろうか? 799円だと思ったら会計画面に862円と表示されたときの、あの腸が煮えくり返るような怒りを思い出してほしい。そんな店と比べて、サイゼリヤはなんと高潔なことだろう。価格そのものの安さもそうだが、こういう価格設定にしているサイゼリヤの"気高さ"こそ、僕は好ましく思っている。今年の10月から消費税が増税して10%になるらしいが、きっとサイゼリヤの価格設定は変わらず税込み~99円なんだろうと、僕は信じている。これはどういうことかお分かりだろうか? 「サイゼリヤは国家権力に屈しない」、ということなのだ。政教分離と同じじゃないか。なるほど、サイゼリヤは宗教だったんだね。そりゃ皆ハマりますわ。


サイゼリヤの好きなところ③間違い探し

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 サイゼリヤのキッズメニューの表表紙と裏表紙の絵には10個の違いがあり、間違い探しを楽しむことができる。食事だけでなくエンターテインメントも楽しめるとは、もはやサイゼリヤは複合型レジャー施設と言っても過言ではないだろう。この間違い探し、キッズはおろか大の大人が挑戦しても苦戦するようなかなりの難易度であるということは、結構有名なんじゃないかと思う。グラスの中の氷の形だとか、料理の皿の厚みだとか、細かな部分に間違いが存在するので、「まさかこんなところに間違いがあるわけないだろう」と侮ることなく、全力を尽くして挑んだ方がよい。僕は幼少の頃からこの間違い探しに励んできたので(サイゼリヤの間違い探しはしばらく時間が経つと絵が変わる)、自分の腕には割と自信がある。何度も間違い探しをこなしていくと、どこに間違いが隠れているのか経験則である程度分かるようになり、絵全体を漠然と眺めるのではなく、部分部分を強弱をつけながら見ることができるようになった(それでもその"弱"の部分に巧みに間違いを潜ませてくるのが、サイゼリヤの見事なところなのだが)。あとサイゼリヤの間違い探しにある程度熟達した人間ならば分かる感覚だと思うのだが、サイゼリヤの間違い探しは「量よりも質」。間違いといっても比較的見つけやすいものから「まさかこんなところに!?」と唸らせるものもあり、その難易度には振れ幅があるため、たとえ9個間違いを見つけたとしても、最後の最も難易度の高い1つを見つけた人に対しては、僕は自ら敗北を認めるだろう。僕が大好きな漫画の1つである、あだち充の青春野球漫画の傑作『H2』(小学館)において、野球部の監督である古賀富士夫が、試合にも恋愛にも負けてしまった自分のいとこに対し、こんなことを言っている。

「ーー恋愛だけじゃねえ。仕事、病気、人間関係、相手もいろいろだ。勝ったり負けたり、泣いたり笑ったり、だから人生おもしろいんだろ? それとも、連戦連勝で死ぬまで笑いっ放しの人生がお望みかね?」

 人生とは勝負の連続。勝利は善、敗北が悪、という二元論で考えてしまっては、息苦しく感じてしまうだろう。勝利にも敗北にも自分なりの解釈を与えてあげることが、人生を楽しむコツなのではないか。そしてサイゼリヤの間違い探しもまた単なる遊びに留まらず、自らの人生の"勝敗観"を見つめ直す場に成り得ると思わないだろうか? 僕は正直もはや自分自身何を書いているのか分からないし、引用したセリフが論の流れに適しているのかも分からなくなってきたが、なんか深そうなことが言えたので良いのではないかと思う。 

 ただこれだけは確かなことなのだが、複数人で間違い探ししていて、なかなか間違いが見つからなくなった時間帯に、「これ間違いがないのが間違いなんじゃない?(笑)」みたいなこと言ってしまうのは、完全なる"悪"の敗北だ。好意的な解釈の余地はなく、何も残ることはないゴミカスの如き敗北である。間違い探し作ってる人の気持ちを想像してみたのだが、これ言われたら製作者としてはムカつくんだろうか? それとも、これ言わせたら勝ち、みたいな感じなんだろうか? いつか間違い探しを作ってる人に出会えたなら、是非聞いてみたい。





 とりあえず今浮かんだサイゼリヤの好きなところはこんな感じだ。振り返ってみると自分はサイゼリヤの特定の要素が好きというより、サイゼリヤが持つスタンスというか、その在り方が好きなんだと思う。世界最後の日の食事にサイゼリヤに行くことはないけれど、世界最後の1週間には何回かはサイゼリヤに行くような、そんな気がしている。僕にとってのサイゼリヤはそういう場所であり、僕のサイゼリヤへの好きは、そういった温度感のものなんだろう。やっぱり好きの理由をちゃんと言語化するのは難しいが、自分でもよく分かってなかった自分の価値観を明らかにできたりもして、それはけっこう有意義なことだと感じている。

 ただ、好きなものでも、いや好きなものだからこそ、自分は色々な視点から見つめたいと思う。盲目的に何かを好きになるのも確かに幸福なんだろうけど、僕個人としては様々な観点から物事を考える方が楽しそうだし、何かを好きになり過ぎてそれ以外に目が向かなくなっちゃうと、それは少しもったいないのかなと思うので。

 ということで、あえて心を鬼にして、サイゼリヤの嫌いところも言葉にしていこうと思う。サイゼリヤの良いところも悪いところも語り尽くしてこそ、僕のサイゼリヤ論は完成するはずだから。



サイゼリヤの嫌いなところ①ドリンクバーにカルピスがない

 サイゼリヤのドリンクバーにはカルピスがない。カルピスは美味しいので、ないと寂しい。

 


























 頑張って考えたけどこれ以上悪いところが見つからなかったので、これで僕のサイゼリヤ論を終わりとさせていただく。みんなも自分だけのサイゼリヤ論を考えて、友達とバトルしよう!


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