神はフィクションだと気づいた夏。

フィクションで全米を泣かすより僕を泣かせるほうが難しい。
と、以前書いた。

これには明確な理由がある。
1985年8月12日18時56分30秒、群馬県上野村の山中。
日本航空123便墜落事故。
犠牲者520名、生存者僅か4名。
単独の航空機事故としては世界で最も多くの命が失われた事故である。

そのニュース速報を見た、夏休み満喫中の小学2年生の僕。
事の重大さを受け止めるには幼すぎたが、その恐ろしさは理解できていた。
次の日に飛行機に乗って母の故郷、北海道に行くからだ。
「全日空だから大丈夫」と誰かが言ったが、怖かった。

翌日の朝、TVは事故の凄惨な現場を写していた。
粉々でそれが飛行機なのか、誰かが踏み潰したプラモデルなのか。
現実に起きていることなのかすら、理解できなかった。

それから数週間が過ぎ、夏休みの終わり頃。
僕は友人宅に居た。
その友人の家は「個人経営の食品スーパー」を経営していた。
小さなコンビニくらいのスケール。

何気なく、ある雑誌に気づいた。
写真週刊誌である。
それを捲った次の瞬間、脳が大きく動いた。

当時は写真週刊誌ブームが巻き起こっていて、如何にセンセーショナルな写真を掲載するか、それを出版各社が争っていた時代だ。

これ以上は書かなくてもわかるだろう。
人であった痕跡が入り乱れていた。
残酷や地獄という言葉でも足りないくらいの、写真の向こうの現実。

神様なんで居やしない。
嘘っぱちだ。
フィクションだ。

即座にそう思った。
サンタクロースは家に来ないと当時から知っていた。
それにお寺が経営していた幼稚園に通っていた故、仏の存在も身近で、まあ仏像があるんだからそう言う人が居たんだろうというのは理解していた。

よくわかんないけど、神様仏様はいるのかいないのか、志村けんが神様のコントをやってたな、あんなようなものなのか?という程度。

願いを叶えてくれる神様。

じゃあなんで、あんなに惨たらしい写真が売られているのか。
じゃあなんで、あんなに惨たらしい現実があるのか。

そんな都合のいい神なんて、いないからだ。
そう思った。

気づいたら泣いていた。

元々感受性は人より強かったのだろう。
それまでは映画だの漫画だのでよく泣いていた。

それ以来、フィクションで泣くことはほとんど無くなった。
強すぎる現実を知ってしまったからだ。

今年の夏で34年になる。
小学2年生だった僕も40を超えた。
歳を取ると涙腺が弱くなる、と人は言うが。
僕はそうでもない。
現実ならば多少は泣くが、フィクションでは未だ泣けない。
所詮はお伽噺、と冷めてしまった自分が未だにいる。

飛行機に乗るのは怖くない。
今は事故の原因も知っているし、CVR(コクピット・ボイス・レコーダー)も聞いた。
123便以上の事故は起こっていないこともわかっている。9.11はあったが。
けれどもJALに乗ることを躊躇う自分もいる。

都合のいい神なんていない。
あるのは偶然と必然が混じり合った現実だけだ。
いや、理由がない事象はないから、恐らく全てが必然なのだろう。

僕にできることは、僕のような経験を子どもたちに味合わせないように、伝えるということをすることだけだ。