ケイソツ。

えー、あの「表現の不自由展」についてです。
僕個人としては「全てがケイソツな責任感の上で為されたものであり、またアートを隠れ蓑とした強力なプロパガンダであり、それを表現の自由というソースをかけて全部を滅茶苦茶にした」展示だったのではないかなと。
そう思います。

芸術監督の方と僕とは思想的にも政治的にも真反対に位置していますが、そこには思想の自由や政治の自由もあり、それに対して異議を唱えることはありませんし、逆もまた然りだと思います。

また意見を投じたり世間に波紋を呼んだり、そういう表現の自由はちゃんと担保されていると思いますよ。
右曲がりの僕ですが、もちろん左曲がりの人も居て当然ですし、現代の日本に於いては、かなり自由だと思いますよ。
SNSやnoteなどで自分の言葉で意見を言えるヨノナカですから。

ケイソツな責任感というのは「表現の自由は担保されているから何を表現したっていい」という責任感。
そういう創作物を公的資金を使って展示しても自由だという考え。
ケイソツ過ぎやしませんかね。
公的資金というものは公的性を持っていて、基本的には中立性を持ったお金なわけです。

そして展示物はそうした中立性から著しく逸脱していた、ということでしょう。
まあ、芸術監督を推薦して採用した運営者にも責任はありましょうがね。

で、芸術監督は脅迫による安全の担保が無くなって「表現の自由が後退する悪しき事例を作ってしまったことに対する責任は重く受け止めている」と述べていて。
それについては僕も同意見で、暴力による表現の自由の侵害はあってはならないと。

ただし、芸術監督として展示物や催事に対する責任もあるわけで、そういう意図をもってして発表するならば、そういう脅迫や暴力行為はある程度予期しておかねばならないとも思うわけでして。
そういう面でも些か軽率すぎたと。

表現の自由について、以下のエントリーにも書いたんだけども。

その中で僕はこう書いたんだよね。

リベラリズムに位置するはずはずなのに「自由主義」とはかけ離れている。
思考が硬直化しているが故に、その発言や行動に責任がない。
自由には責任が伴う、とよくいいますが責任がない自由は無価値なんですよね。
自由に対する責任って「自由であることを護る」ことだと思うんですよ。
彼ら彼女らはそれを護っているかと言ったらそうでもない。

つまり、自由を表現するならば「表現の自由そのものを護る」という責任が生じると僕は考えていて。
そりゃあ表現の自由は脅迫や暴力行為に対して無力ですよ。
殴られたり殺されようとしている時に、表現の自由もへったくれもないから。

なので「物議を醸す」つもりならば、それ相応の舞台を用意して「建設的な意見を言い合える場所や仕組み」が必要とも思うんですよ。
となれば、一番安全な展示場所はWebであって。
態々危険を冒して実物を見せるのではなく。
それに「一般社団法人インターネットユーザー協会代表理事」なんですから、そう言うときこそのWebなんじゃない?と思うわけです。

表現の自由は決して「万人を平等に幸せにする」とは思いません。
表現により誰かを傷つける可能性はゼロではないし。
もっというと「万人を平等に不幸せにする」するとさえ思います。
決して表現の自由は銀の弾ではないのです。

しかしながら、人間の思想というのは一人一人異なっていて、それを統制するのではなく、自由に表現されるべきとも当然思います。
「みんながちょっとだけ傷ついたり不幸になったりするかもしれないけども、思想を強制され、何も言えなくなるよりはマシでしょ」くらいの感覚です。

公的資金と使った中立ではない展示、それによる脅迫や暴力行為による展示中止。
一般社団法人インターネットユーザー協会代表理事という役職にいる人ならばそれくらいの予見はできるだろうし、ならば違う手を用意していてもおかしくないはずなんですよ。

かなりケイソツで脇が甘かった、これに尽きるでしょう。
そこで表現の自由について語るのは的外れもいいところで。
自分の思想と正反対の人もいるだろうから、そういう人たちと意見を交換できるシステムを作ればよかっただけの話で。

まあ、でも。

ジャーナリストってこんな無責任な商売だっけ?とも思います。
自分の意見だけ言って、異論反論を受け付けない。
そこにはジャーナリズムの欠片もなく「拡声器を使って喚いている人」に過ぎないんだよなあ、と。