今回のセクハラ問題から


今回の市原幹也くんのセクハラ問題の件でよくわかったのは、「誰でもセクハラの被害者や加害者の“関係者“になりえる」ということです。

私は今回の事件の当事者ではありません。これまで何回か市原くんと共同でプロジェクトを行ってきましたし、いくつかの仕事で、彼の新しい展開に寄与してきたと思っていますが、このようなことに繋がるとは、夢にも思っていませんでした。

最初にこの件を知ったのは、12月18日(月)の夜、平田オリザさんの指示を受けた青年団員の方からメールをもらったことでした。とても動揺して、それから数日の間、この現実をどう受け止めたらいいか、どう自分がリアクションすればいいか、迷い、全然言葉がまとまりませんでした。

「何やってんだ?」「あり得ない」「俺にだって青年団の仕事のあっせんなんかできないのわかってただろ?」「私は加担していない」・・だいたいそんなことで、ぐるぐるしていました。

19日に謝罪文が公開され、翌日、市原くんから、被害者の方への謝罪と、私に対して詫びるメッセージが届きました。どう返したらいいか正直わかりませんでしたが、とにかく被害者の方のことを思うと、私自身、許せるものではない。一方でSNS上は罵声の大騒ぎになっている。「友人として、これからの誠意ある行動を期待する」という言い方で「死ぬな」という念を送るしかありませんでした。

その後、市原くんと関わりのある方が「失望した」という言い方をしているのを見て、その言葉が相応しいというふうに、やっと手がかりを見つけた気持ちになりました。

そういう状態になりました。

当然ながら、今回明るみになったような行為は、許されるものではない。市原くんは、しかるべき報いを受けるべきだと、私は思っています。
20日の彼のメッセージで既に、専門家に相談をしながら、謝罪文にもあるとおり被害者の方に対して真摯な対応をしていく、と伝えられました。被害者の方への対処や被害事実の調査、しかるべき罰のあり方などは、そちらの対応に委ねます。もし被害者の方の同意が得られる部分があれば、今後のためにも、更に事情を知りたいとは思っていますが、それが難しいこともよく承知しています。

私が市原くんと一緒に仕事をしてきたのは、演劇の社会的な側面について、同じような志をもっている仲間だと思っていたからです。今回、そうした信頼は一挙に失われました。裏切られました。
もう今後、私が市原くんと演劇の仕事をすることはありません。
私と彼の志は違った。そのことを予め察知できなかった自分に恥じ入るしかありません。
これが今回の件を受け止める私の態度です。

取り返しがつかないことが起きてしまった今、せめて彼には、誠意ある対応をして、不可能かもしれない「取り返すすべ」に向けて行動してほしいと思っています。演劇がどうとかではなく、人の生き方として何かを教えてほしい。
そして私は「次の被害者を出さないすべ」を考えなければならないと思います。

私が思うに、演劇というのは、日常の束縛から一歩外に出て、鎧を脱いだところで他者と出会い直し、共生していく道を一緒に考える、そのきっかけを掴む営みです。舞台の上の演劇は、通常、演劇関係者だけで行われますが、ワークショップや市街での上演などは、一般市民の方にも開かれています。その意味で、「日常の束縛から一歩外」への出方が非常に重要で、そこに専門性(技術や態度、倫理)が求められます。
市原くんは舞台の上の演劇だけでなく、ワークショップや市街劇など、より日常に近いところでの演劇のあり方に挑戦していました。僕はそういうところに、彼への期待をみていました。

それだけに、今回の体たらくは失望に尽きない。

同じ思いの人は、私以外にも、彼が活動した各地にいると思います。

私が、今この時期に、自分の考えを書きたいと思ったのは、いま各地に、押し黙るしかないという思いをしている、まだ出会えていない仲間たちがいるだろうと思ったから、というところがあります。その人たちは加害者ではないけれど、私自身がそう思ったように、「お前も加担していたのか」というような罵声を浴びるのが怖くて、何もできないのではないか。「今何かを言うと自分も燃えてしまうのではないか」と、私自身、ネット上の炎に晒されながら考えていました。

だから、私は、今各地にいるその「関係者」たちと気持ちを分かち合いたいという思いもあって、これを書いています。
私が彼と出逢ってからほどなくして、彼は横浜に拠点を移します。北九州から横浜へ、そして更に他の地域へと、活動が展開していくのを後押しするようなきっかけをつくった部分が、私の仕事にはあります。

「誰でもセクハラの被害者や加害者の関係者になりえる」と最初に書きました。

この言葉の意味することは、「次にこのような事件を起こさないように、今回の件から、それぞれの人がよく考える必要がある」ということだと私は思います。次の被害者を出さないために、こういったことが起こらないようにするにはどうしたらいいかを、よく考える必要があります。

あらかじめ“悪い人“がいるわけではなく、人は悪いことをすることがある。

悪いことが起きた後に、そこから何も学ばなければ、また同じことが起きます。

平田さんがブログ記事で訴えたことは、こうしたことを再度起こさないための提案だと受けとるものだろうと私は考えます。
12/21 http://www.seinendan.org/hirata-oriza/message/index-171221.html
12/22 http://www.seinendan.org/hirata-oriza/message/index-171222.html

2回の記事を経て、私は平田さんの提案に同意しています。2回目の記事は、事実関係などについて、関係者に対して予めチェックの機会がありましたから、文章を読み私も納得した上で記事の公開を待ちました。

演劇関係者の中には、平田さんの提案を、単に規則の提案にすぎないと誤解している人が、わりと居るように感じています。
一方で、自分が被害者になりうると認識している方から、強い賛同の声が多くあるように思います。

既に自分の振る舞いの誤りを認めた人を責めることや、次の手を打たずに赦すことから、予防策は出て来ないと思います。

規則をいくら作ったとしても、人の振る舞いは規定できません。振る舞いが規定されるようなことがあれば別の意味で大惨事です。それぞれの人の振る舞いは、それぞれの人のものです。

その意味で、私は演劇関係者にまず、今回の事件を受けて、自分たちの倫理を確認してほしいと思います。
自分の関わりの範囲でこうしたことを起こさないためにどうするのか。
自分が、まだ、「被害者や加害者、または被害者や加害者の関係者」になっていないからといって、今のままでいいということにはならないはずです。

演劇がもつ力を、もっと肯定的に世の中に作用させていきたい。
そのためには、演劇だから、表現だから、許される、あるいは、規則は弛くてもOK、というようなことにはならない。そんな前提がなければ面白くならない演劇は、これを許せるという同じ“倫理“の程度を持つ人たちの間だけでしか成立しない、ということになりませんか。
私はそれは許容できません。男性女性に関わらず一般市民が関与し、機会を必要としている子どもや高齢者、社会的弱者の方などとも手を携え、その方々とともに、今よりも可能性を広げていけるようなことがしたいと思っています。

私にとって、身近でセクハラの事案に接するのはこれが初めてではありませんが、今回結果的に「加害者の関係者」になった私は、今までより一層深刻に受け止めています。
・どうしたら次の被害者をつくらずにいられるか。
・どうしたら演劇の力をもっと世の中に広げていけるか。
これらを一体のものとして考えなければならないと思います。

そんなことわかってるよ、という方もいらっしゃるでしょう。・・でも、それでも起きた、というのが私の今いるところなのです。
危ないとわかっていたら、いろんなやり方で回避します。しかし"危ない"ということがわかりにくいのが、セクハラやパワハラ、DVといった、密室の権力と暴力の問題だと思います。

こういうことが起きたその時に、認識を変えるための一手を考えませんか。

止むを得ずいま押し黙っている人たちは、いまそういうことを考えさせられているところだと思います。

是非、一緒に考えて頂けたらありがたく思います。
何卒宜しくお願い致します。

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※ 12/29 追記
複数の方から、「事前に知らなかったのであれば、そのことを明確に書いたほうが良いのでは」というご指摘をいただきました。
本文に書いたとおり、私と彼の付き合いは5年ほどになります。5年ほど前、北九州から横浜に拠点を移した後に、北九州の知り合い2人から個別に、彼に女性関係の問題があったことを一言聞きましたが、あくまで女性関係として、で、セクハラ・パワハラに関わることとしてではありませんでした。
横浜でこのようなことがあったというのは、今回の件が明るみになるまで全く知りませんでした。

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野村政之

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