図工美術

オピニオンの時代 ≒ デザインの時代。 デザイン思考を育む図工、美術教育

  昭和末期の10年弱は、私の18歳から20代後半にかけての青春時代(死語?)と重なります。その前半は、大学選び、進学先の学科、研究室選び、そして就職先選びと、大きな決断の連続だったわけですが、令和の今ほど膨大な選択肢はなく、選択肢から論理的に選んで、消去法で進む道を選べてしまっていたような気がします。いまと比べたら。

 終身雇用制度(幻想)が社会を支配していました。就活という言葉すら存在せず、学生は、自宅に段ボール3箱分届く大企業からのラブコールのどれを選んでOBと会い、理工系の場合は、学科の教務主任の裁定で、(将来社内で過当競争にならないよう)電機メーカーなら、日立、東芝、富士通、NEC、などに各1人ずつ、例外的に2人を割り当てる(でも最後はなるべくじゃんけんで1人に絞ったり)という大学側の作業が終わったら就職先も決定。いまの学生さんからみたら信じがたいほど、就職のことを考えた時間はせいぜい10数時間だったかと思います。

 そして、当時からデジタル思考、論理プログラミングなどにも慣れていたIT研究者としては、正しいデータ、優れたデータに基づいて演繹、論理を突き詰めれば必ずや、問題解決のアイディアが出る、と信じていました。常に能動的、主体的に生きていたつもりですが、大局的にみれば、レールの上を走っているだけで、荒れ狂う大海原を漂う小舟を自分で漕いで生きていたわけではなかったような気がします。いまは、まさにそんな小舟の船長さんをやっている感覚です。

 古き良き昭和時代より何桁も多い選択肢に囲まれ、経営者としてリアルタイムに意思決定していくには、ファクト=事実データの積み重ねから消去法で選択肢が1つ残るのを待ってなどいられません。絶対あり得ない選択肢を全部消去しても無数に残ってしまう中から、自分の流儀、価値観にあった重要なもの、ビジョンや信念に沿ってやるべきだと考えたこと、最後は好き嫌いで決めていかねばなりません。起業ネタを教えてくれ、と時々言われますが、そんなときは「あなたがラーメン屋になりたいかウナギ屋になりたいかはあなたの好みで決めるしかないのでは?」と回答するようにしています。

 このような時代の変化を、ファクトの時代からオピニオンの時代に変化した、ということができるでしょう。経営者になってからは、一見ファクトの塊にみえる会計も、旧称管理会計、むしろ戦略会計と呼ぶべきオピニオンであり、ビジョンの実現に向けて経営、成長を支えていくものだということを体感しました。実際、減価償却方式の数通りのうちの1つを選ぶと決算結果が変わり、会社の実体が違ってみえたりします。同じ資材や設備のコンピュータでも技術ベンチャーでは実験器具や、時には消耗品のように使い倒すから、こんな費目とみなすべき、などと適切な扱いが変わるものです。

 実際、神羅万象、あらゆる物事の中で、とくに必然性もなくそうなっているものが実はたくさんある。そこには、理論もない、ただそうなっているだけ。こんな、自然科学者にとっては少し気持ち悪い実態を認めざるをえない。深層学習がキャプチャーする暗黙知の多くも、とくに帰納推論したわけでもなんでもなく、ただ、あるがままの入出力関係を、共通的特徴をおさえて捉えただけというものが多いわけです。※もちろん中には理論化、形式知化できるもの、すべきものもあり、それらは、そもそも深層学習で関数化すべきではなかった可能性が高いといえます。

 自動車のエンジンの設計という作業も、最近は、オピニオンというか、デザインセンスがものをいう局面が多いと聞きます。それも見た目でなく、目に見えない違い、曲面の構造からエンジン出力や燃費が変わってくるのだから驚きます。飛行機がなぜ飛べているか、その原理が完全には解明されていないくらいですから、定番製品のさらなるチューニングにも、ばく大な自由度があってもなんの不思議もないといえるでしょう。ここにも、なんらかのベストプラクティスの部分構造を集積して、その構造を写し取れるニューラルネットワークがあれば、暗黙知のままとらえられ、多数の組み合わせを生成してシミュレーションし、最後は数通りの実験をすることで高性能なエンジンを生み出すことができそうに思います。

 後半は、そういったデザイン力を磨くにはどうしたら良いか、です。「AIに勝つ!」では、彫刻家・故佐藤忠良氏の中学美術教科書への序文を、ご子息の了解を得て長めに引用しています。

p.270~271

美術の力
 美術展で絵画を見ることも、脳にすばらしい刺激を与えてくれます。美術展にはよく行きますが、絵を描く活動は中学でほとんど終えてしまったため、筆者自身が述べることは避けます。代わりに、彫刻家・佐藤忠良氏が美術の教科書の序文に書いた文章*38 の一部と、小学校の教科書に書いた、なぜ全員が美術、図工を勉強するか、という問いへの答えを引用します:

「なぜ美術を学ぶのか」佐藤忠良   
「人は、中学生くらいの年齢になりますと、自分のすることの意味を知りたいと思うようになります。
 いま美術を学ぶ前に、きっと皆さんが知りたいと思っている、なぜ私たちは学ぶのかを、お話します。
 ……中略……
意欲や判断する力というのは、目当てをもって生きていける力であり、自分で自分を成長させていける力です。この意欲と判断力は、すべての人に公平に与えられていますが、均一ではありません。

人によって意欲や判断力の発達する面が違ってきます。ここでの問題は、そうした力を、自分がどういう仕方でより開発できるかです。
このために勉強があるのです。
勉強といっても本を読むだけではありません。
ものを作ることをも含めて、目当てをもった仕事をやりぬくなかで、自分をつくっていくことです。
美術を学ぶとき、既成の美術というものがあって、それを覚えたり、詰め込んだりすればよいと考えないことです。
自分の感動や感覚が最初です。
何かをしたいという意図が先です。
 ……中略……

【後略】

章末注*38…佐藤忠良、安野光雅編著『少年の美術』現代美術社、1984年。

 自ら、何かに感動して何かをしたいという意図にかられ、無から有を文字通り作り出すような経験をしておくことが限りなく大事だ、と説得力ある文章で迫ってきます。製品やサービスの設計、さらにはビジネスそのものの設計において重要さをますデザインの時代に必要な資質は、やはり美術教育が大きく育むわけです。STEM教育などの風潮に流されて、音楽と同様、美術の授業も絶対に減らしてはなりません。高校ではどちらかしか選べないことが多いでしょうが、せめて、もう1つの芸術科目も選択制で取れるようにならないものでしょうか。

 小学1年生に向けた佐藤忠良氏のメッセージは、「AIに勝つ!」のp.272に掲載しています。たまたまこれらの巻頭言に出会った何人かもブログに書いてらっしゃいますね:



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