シンプルで美しいものを求める科学の営み ~科学の定義に反証可能性は残したい

   のノートでは、人間の認知可能な情報空間のサイズを遥かに超えた多次元、多量のデータで科学理論が証明される事態が増えていくのか、という問題を提起しました。科学は説明理論です(であり続けた)ので、人間に理解できない説明というのが科学といえるのかという哲学的な問題にもぶつかります。1つ付け加えると、まず面白い(と機械が感じるわけではありませんが)、あるいは有用なモノが作られ、その後から、それを理論化しようと理論が追いかけるようなことがAI分野では起きています。深層学習では、その差が大きいとみえます。アインシュタインの重力波の理論が出来て100年後に実験で証明されるのとは正反対、好対照です。もちろん、超新星爆発の観測により全く意外な、宇宙の加速膨張が見つかり、必死に理論が追いかけるということは物理学の世界でも起きています。

 真理は単純で美しいものだ、とこれまで多くの偉大な物理学者は確信してきたと思います。たとえば、物質の根源的な単位であったはずの素粒子が数百種類も見つかってくると、これはおかしい、と考えて、これらが6種のクオークの様々な組み合わせで出来ていると考える。ビッグバン直後の超高温・高密度の状況下でクォークグルーオンプラズマ(クォークスープ)が出来ていたと考えられつつ、クオークの分離はあまりに高レベルの高エネルギーが必要なので実験的に分離するのは不可能と当初は思われました。しかし、その後、分離に成功。中性子星とブラックホールの中間にあたる、クオーク星の候補も示唆されています。

 このように理論と実験・観測の、美しくも実り豊かな連携ではありますが、そのような在り方、人間の認識・理解可能な理論と、最先端の実験装置による実験に頼る物理学は、美しいものに寄り添い過ぎの偏ったアプローチでは、との指摘があります:

”ある物理学者の方がおっしゃっていたのですが、非線形・非平衡・励起状態・動的な物性は、従来物理学者が「汚い領域」として避けてきた領域だそうです(注:その後「非平衡の物理学は近年急速に進歩して活発に研究されている」というご指摘を受けました)。あるいは、科学においては「不良設定問題」、すなわち 解が一意でなかったり、解の空間に不連続な点が存在したりする問題は、解くのが難しいとされています。一方、深層学習は、極めてパラメタ数が大きいために、任意の高次元・非線形な関数を近似することができます。十分な量の例示データさえあれば、科学の「汚い領域」や「不良設定問題」をモデル化できる可能性が出てきたのです。”

 正解が複数通りある問題は、深層学習には難しそうですが、、その辺のツッコミは置いといて、物理学でさえ、「汚い領域」から新たな発見が出てきそうなのであれば(宇宙の基本的な物理定数がなぜその値になっているのかという課題のように必然性が導かれていない偶然の設定(それにより生命、人類が誕生した!)あたりが高次元科学の腕の見せ所かもしれません)、いわんや他の学問領域、とくに実学とされる工学、経営学、医学などでは、もっともっと「汚い」(笑) 手法で、成果が出てくるのかもしれません。理学よりは明らかに工学に近いと思える医学の世界で、分子生物学の延長で解明が進むDNAの意味の解読に、エクサ・スケールのスーパーコンピューターが必要とされていると聞きます(東大医科研など)。さらに、後天的に獲得した形質の継承を担えるエピジェネティクスにまで広がると、もはや、現象、入出力データをありのままにとらえて、コンピュータ上に対応関係、相関関係が「なぜか」構築されるのを期待するしかないのかもしれません。

 科学の定義から、反証可能性(falsifiability)の看板は降ろしたくない (マズローやノナカは反証可能性がないので科学理論じゃない)、という気持ちも抑えきれません。データによるパターン発見、自動モデリングの高次元科学では、先ずユニークな新仮説ありき、ということではなくなってしまうでしょう。 科学とは呼ばず、新科学と呼びましょうか。それも科学の一種では?との反論には、「新体操は体操と全然違うでしょ(ニヤリ)」と返したいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?