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教養=リベラルアーツの減退は人工知能研究に致命傷

野村 直之
6月9日 · 

  人文科学(Humanities)の研究は、まだ、自然科学で定式化できない人間の本質を様々な手法で探求することと考えています。カズオ・イシグロのクローン人間の心理をリアルに描いた小説なども見事に該当します。心理学、社会学なども本来は自然科学を超えた手法で人間の性質の探究を行うべき。とすれば、人間研究の最先端を走ることになりますので、多くの局面で人間をお手本とする人工知能研究に対して重要な示唆を与え続けるはず。

 そんな人文科学の予算を削り、研究を縮小し、教育時間を短縮することは、既に人工知能研究で周回遅れとなっている日本に、さらにハンディキャップを与えることになるでしょう。人工知能研究者、応用技術者たちが、複雑かつ柔軟に業務をこなしている人間の仕事ぶりを踏まえて正しいAI導入をはかるためにも、まだ定式化しきれていない人間の特性について、幅広い教養をもっておく必要があります。単なる知識ではなく、技術やビジネスの適切な在り方を洞察できる水準にまで血肉となっているべし。

 そんな教養教育=リベラルアーツ教育を担う重大な使命をもった教員はどのような立場におかれているでしょうか。次のリンク先の記事をみてみてください。

上の河野先生は、母校に凱旋着任した直後に教育プログラム再編成を議論する委員会の座長の発言を聞いて耳を疑ったといいます。「・・・発言の趣旨は、旧教養課程系の英語教員が座っている椅子を、できれば商学部で自由に使いたいということであり、私は、希望にあふれて着任して早々に、「できればあなたには辞めてもらった方がいいのだが」というメッセージを浴びせられたのである。私の一橋ライフは、これによって決定的に呪われたものになった。」

「その後私は、自分なりに状況を改善させる努力をしたつもりだが、後述する2015年を経て大学の内外の状況は悪化の一途を辿り、「お前(たち)はいらない」というあのメッセージは、結局私の頭からぬぐい去られることはなく、現在にいたる。それが、私の背中を押し」て私大に移ったといいます。

1991年の「大綱」による規制緩和で、教養教育と専門教育の区分が緩和され、東京大学教養学部を唯一の例外として、他の国立大では、教養部の解体が進んだ。一橋大がその典型で、旧教養部の教員は他の専門学部(大学院)に配置換えされていった。専門学部に籍を置きながら一年生に英語を教えたりという状況となる。

その後、2015年の国立大学法人法改正が、大学の運営に企業のような市場競争の仕組み、成果主義を持ち込むこととなった。競争的資金の獲得の正否が人事考課を左右することになれば、明らかに旧教養系の教員は不利となったことでしょう。

そして、河野先生は、競争原理の導入による大学教育、運営の効率化は大失敗であった、と断じます。その趣旨は、新たな評価制度が屋上屋を重ねるがごとく官僚制を強化しただけで、かといって細分化され、高度化した多数の専門研究の最先端を評価できる官僚などいない(米国の競争的資金獲得評価を行う高級公務員の大半は博士号をもっていてその能力を有しています)ことから、無駄な「評価ごっこ」で教員の雑用が増えただけ、と言いたげです。

「グレーバーが『官僚制のユートピア』で述べているように、新自由主義時代はより多くのペーパーワークの時代になってしまった。官僚制度を減らすための原理が巨大な官僚制度を生み出している。・・・そして、国立大学の研究力はどんどん低下してきた」

「教員の雇用が流動化し不安定になると、じっくりと腰を据えた研究がしにくくなる。・・・・2002年あたり以降、日本の論文数は停滞・減少し、先進国中でも最も低水準に落ち込んでいる。・・・例えば、2013年の生産人口あたりの論文数は、日本は31位で「東欧諸国グループに属する」という刺激的な言葉が見える。豊田氏がその要因として挙げるのは、フルタイム研究者の数、公的研究資金の額の減少であり、日本はそこで比較された先進国中で、いずれについても最低水準となっている。これは、明白に、ここまで述べたような改革のみごとな「成果」である。」

「2015年6月の文部科学大臣通知「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」であった。・・・この通知は「教員養成系や人文社会科学系学部・大学院〔を〕、組織の廃止や社会的要請の高い分野に転換する」ことを求めて大きな衝撃をもたらした。」

うーむ、、この通知を誤りだったと認め、1日も早く、人工知能研究や活用のためにも、日本の人文科学研究、教養教育の充実をはかるよう、180度の方向転換を行ってほしいものです。



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