見出し画像

幸福は生活の解像度の高さから

 幸福になる、という表現に違和感を覚える人がいます。幸福を追求する、幸福を手にする、なども同様です。誰かを幸福にする、となると、「そんな傲慢な言い方は嫌いだ」と感じる人も多いでしょう。(自分の)幸福を願う、という表現にも抵抗感を覚える人もいます。しかし、「幸福を感じる」ならば、何の問題もない。これらの感じ方の違いは何故生じるのでしょうか?

 高年収になること、スペックの高い異性をゲットすること、その前提としてイケメンや美女であることが幸福なのでしょうか?そうなることを願い努力したら幸福になれるのでしょうか?

 下記記事の筆者、安達裕哉さんは、「会社は、人が幸福になるための、社会装置に過ぎない」と思っておられます。とすると、人々はどうしたら幸福になるのかを問わざるを得ません。

彼が福岡でインタビューした、ある起業家によれば、成熟社会のヨーロッパの人々は幸福についてよく知っているとのことでした。物価も高いので、消費によって、庶民が幸福になれることはまずない。しかし、多くの人々が、お金がなくとも幸福に暮らしているようにみえる。それはなぜか? という疑問に、その起業家は「日常生活の解像度が高いから」と答えたといいます。

「・・・彼らは日本人よりも、日常生活の解像度が高いんです。」

「解像度……?」

「要するに、日常の些細なことにも幸せを感じることができる、ってことです。」

「例えば?」

「例えば、布団で寝られるだけで「いやー、俺って凄い幸福だよな」と思うこと。」

「……」

「卵かけご飯を食べて、「こんな美味しいものを食べられるなんて、なんて俺は幸福なんだ」と思うこと。」

正直、私は「どこかで聞いた話だな」と思った。

そこで「要するに、幸福というのは、感じ方一つ、ってことですよね。」と言った。

すると彼は、「そうじゃないです。」ときっぱりという。

よくわからない。

「そうじゃないんです。もっと視点を高くしてください。私は「卵かけご飯を食べることに幸福を感じなさい」と言っているんじゃないですよ。」

私は混乱した。

「では、どういうことなのですか?」

「「「卵かけご飯を食べることが幸福」と、自信を持って言える自分がいる」ことこそが、幸福なんです。」

「???」

「わかりやすく言うと、幸福な人ってのは、「自分がいかなる状況でも「幸福である」と信じる力を持っている人」のことなんです。」

ああ、なるほど。

たしかに、そうかもしれない。

つまり、彼の言葉の裏を返せば、不幸な人とは「私には足りないものがあり、そのせいで幸福になれない、と思っている人」のことだと言える。

 「小さな幸福」などと言い換えると陳腐ですが、解像度の高い暮らしで、大きな幸福感を感じる対象を見つける能力が大切、ということですね。筆者の安達さんは、さらに、「幸福とは高度な「自律」なのだ。そして、ヨーロッパでは「自律」の知恵が、庶民の間に受け継がれている。」と言い換えます。一足先に停滞期に入ったヨーロッパにならい、日常の些細なことに幸せを見出したり、消費でなく、個性的な「創造」に打ち込んでみたりしてはどうか。これらの知恵を、「幸せになるための一般教養」と言うべきか、と語ります。

 この安達さんが数年前に紹介されていた「人はなぜ働くか」について、"人工知能が変える仕事の未来"に続き、マズローに絡めて新著 「AIに勝つ!」の第1章「AI時代の幸福論―人は働いて幸福になる」でも引用しています。ベーシックインカムが問題解決にならないことを示す有力な論拠の1つにしたわけですが、今回の、些細なことにも幸福を見出す能力、生活の解像度の高さが幸福の秘訣、というのには脱帽しました。

 でも、この域に達してしまっては、知能労働による創造生活を目指す必要がない、ということにもなりかねないので、プロテスタント的な勤勉、一所懸命(1箇所だけで!)からは脱しつつ、でもマズローの欲求の階層はクリアしていくという本論は残しつつ、章末注に、この引用元を紹介したかったところです。「AIに勝つ!」第2刷以降に反映したいと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?