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学生時代の少し変わったアルバイトの話〜小倉・リトルイタリー物語〜

皆さん、こんにちは。野村です。

今回はサッカーは全く関係なく、個人的な昔の記憶の話です。書き留めておかないと、いつか忘れそうで。

私は高校を卒業したあと2004年4月から2008年3月まで、大学進学で山口県の実家を離れ、福岡県北九州市に4年間住んでいました。

大学の仲間から紹介してもらったり、求人情報誌で探して応募したりして、単発バイトも含めてたくさんのアルバイトを経験しましたが、今回は、その中でも一番長く約2〜3年続けていた、ちょっと変わったアルバイトと、そのお店のマスターにまつわる話です。

お店の概要

私がアルバイトしていたお店は、福岡県北九州市小倉北区、小倉駅南口から徒歩圏内にある繁華街。いわゆる夜の街。鍛冶町という場所にあった「リトルイタリー」という名前の洋食屋。

既に15年以上も前に閉店しており、今回Web上を検索してみても、残念ながら当時の写真などは全く残っていませんでした。

Googleストリートビューで発見した、かつてリトルイタリーが入居していた雑居ビル。

周囲は煌びやかなネオンに包まれた歓楽街で、特に週末の夜ともなると、多くの老若男女が繰り出し、非常に活気に包まれる場所でした。相場より時給が高かったので、接客業のアルバイト(俗にいう水商売)をやっていた大学生もそれなりにいましたね。

「リトルイタリー」はこぢんまりとした店内で、入ってすぐにテーブル席が4〜5席ほど。15人も入れば満席となるような、マスターが個人で経営している小さな洋食屋でした。

お店の営業開始時間は18:00。元々は深夜2:00ぐらいまで営業していた時代もあったそうですが、私が入った頃は24:00ごろまでの営業。夜遅くなると注文も減り、マスターも体がきついとのことで、段々と閉店時間が早くなり、最後のほうは22:00には店を閉めていました。

全て手作りの洋食屋で、食事のメニューはピザ・パスタ・カレー・ハンバーグ・オムライス・フライ・焼き飯・ドリアなどかなり豊富。特にピザとオムライスが人気メニューで、小倉名物の焼きカレーもよく注文が入っていましたね。

バイトに行くと必ずまかないが出ていたので、マスターが作る美味しい料理が毎回出勤の楽しみでした。たまに忙しくてまかないを出せない時は、マスターが500円を帰り際に渡してくれました。

この店でアルバイトを始めたきっかけは、大学の先輩からの紹介でした。「髪型、髭自由のバイトがあるんだやけど、やらん?」と言われ。当時は髪の色や髭など、服装に制限があるアルバイトが多い中、その店はなんと自由!

当時は様々な色に髪の毛を染めたりエクステを着けたりして大学生活をエンジョイしていた私。「なんて素敵な店があるんだ!」と思い、一つ返事で先輩に「やります!」と答えたものです。

昔の携帯電話に残っていた2005年のDQNな私。地元宇部の美容室に毛糸と2万円を持って行き、馴染みの店長に「これで好きにやってください」とオーダーしたのがこちら。洗うのが大変だった記憶。今もある、恩田のFLA FLAという美容室です。

ちょっと変わったアルバイトの内容

で、タイトルに書いた「ちょっと変わったアルバイト」とは何かというと、「リトルイタリー」は店内飲食もできますが、稼ぎのメインは、小倉の夜の店(スナック、ラウンジ、キャバクラ等)への洋食の出前でした。

ほら、夜の店って基本的にはお酒と軽食ぐらいしか出さないので。食事を食べたいという客や店のボーイなどが「リトルイタリー」に電話で注文し、マスターが作った料理を、アルバイトの私が注文のあった店まで運び、お客から直接代金を受け取る。お皿は後で回収に行く、という内容のアルバイトでした。

赤ポチの印の場所がリトルイタリーで、赤線で囲んだ範囲がおおよその配達範囲。配達は徒歩にお盆のスタイル。たまに量が多いとおか持ちで出動。一番遠い常連は浅香通り沿いの雀荘(赤線で囲んだ右下の辺り)で、そこまで徒歩で約10分ほど。

店内にいる時は、電話での注文受け、皿洗いや簡単な調理補助(カレーを温めるとか、玉ねぎの皮を剥くぐらいでしたが)もやっていました。

慣れるまでは、ビルの名前やお店の名前、場所などを覚えるのに苦労しました。また、お店の入れ替わりもよくあったので、聞いたことがない名前の店から注文が入り、店の場所が分からずに苦労したことも。

まあ、慣れてしまえば簡単なもので、複数の注文を一度で配達に行くような場合、最初のAの店にオムライスを持って行って、途中でBの店で皿を回収して、最後にCの店にピザを届けて店に戻る、など自分で組み立てができるようになってきました。

夜の店なので、基本的には酔っ払った客やスナックのママさん、ラウンジや風俗店のボーイさんなどとのコミュニケーション。

気前よく「兄ちゃん、頑張ってるねえ。小遣いやるよ!」という客、刺青が入った明らかにヤバそうな人、スケベ心剥き出しで言い寄られて面倒そうにあしらうお店の女の子など。

人生悲喜交交の人間模様が垣間見れる街で培ったコミュニケーションは、今でも少しぐらいは役に立っているのかも。

一度だけ身の危険を感じたのは、エレベーターの中で男色っぽい方と二人きりになり「お兄さん、かわいいわねえ♡」と言いながら、そっと頬を撫でられた時。

私には全くそっちの気がないので、とっさに持っていたお盆で股間を隠し"早く1階に着いてくれ〜"と心の中で思いながら、エレベーターが1階に着いた瞬間に「では!」と勢いよく逃げたものです。

ちょっと変わったマスターの話

「リトルイタリー」の店主である"マスター"は、当時50歳ぐらいだったと思います。確か、子どもはいるけど離婚して独り身で。

マスターは当時既にほとんどの人が持っていた携帯電話をなぜか持っていなかったので、たまに業者へ発注を忘れていた食材や調味料があると、私が携帯電話で業者に電話して、マスターが100円くれたり。

私がタワーレコードでCDを買ってからバイトに行くと、タワレコの黄色い袋を見て「それ、俺も聞きたいからMDに録ってきれてくれ」と言い、次のバイトの時にMDを渡すと500円くれたり。

バイト中に注文がなく暇なときは、マスターとバイト2人の計3人で、トランプで大富豪をやっていました。店内に客がいて料理を作って出し終えた後も、たまにヒソヒソ声を大富豪やったり。

マスターはヒップホップが大好きとか、カナダでGREEN DAYのライブを見たとか、車を運転していて「ヤ○ザの葬式やってるなー」とよそ見していたら事故ったとか、当時の私と同い年ぐらいの20代前半の彼女がいるとか。ツッコミどころ満載の逸話が多い人でした。

まあ、マスターはとにかく気持ちが若くて豪快で、人生を自分のやりたいように謳歌しているように見えましたね。

決して真似をしようと思っても自分にはできない。でも、なんだかすごく楽しそうに生きている人だな、とよく感じていたものです。

「リトルイタリー」の閉店と、マスターから受けた影響

大学4年になると、注文が減ってきたり、マスターが体がきついと言って閉店時間が早くなってきたりして、そのうち配達のバイトが2人体制から1人体制に変わり。

「今日は休みにするから」とマスターは携帯電話を持っていないので、行きつけの雀荘やマスターの友人から当日急に電話がかかってくるような日が増えてきました。

そのうち「しばらく店を休むことにする」となり、最後は「店を閉じることになった」ということも、確か同じバイト仲間から、マスターからの伝言として聞いたと思います。

なんだか最後は呆気なく、マスターと会うこともなく、大学生活で一番思い出深かったアルバイトが終了しました。

大学を卒業して数年後に小倉を訪れると「リトルイタリー」があった場所には、お洒落な飲食店が代わりに入っていました。その後ずっと同じ店なのか分かりませんが、フランス料理店が入っているようです。

何度かこの店の前を通りかかったことはありますが、中に入って食事をしたことはありません。写真で内観を見ると、かなり綺麗になっているけど、「リトルイタリー」だった当時の面影を感じます。

この店の周辺だけではないですが、小倉駅南側の鍛冶町、堺町、紺屋町のかつて歓楽街として賑わっていた街は、現在では空き店舗が目立ち、かつての賑わいは過ぎ去ってしまいました。寂しい限り。

東京で銀座を夜に歩いたことがある方は、丸の中に赤い源の文字の赤いネオンの「丸源ビル」を見たことがある方がいると思います。あれって実は北九州の小倉が発祥なんですよね。

私がバイトをしていた当時、丸源ビルがいくつも小倉の繁華街にあり、スナックなどへ配達に行っていましたが、今ではほとんどが解体されていて、時の流れを感じます。


無理やり少しだけサッカーの話を結びつけるならば、このバイトには大半モノレールで通っていましたが、何度かは車で行っていました。

ただ、店があった小倉駅の南側は駐車場代が高かったので、小倉駅北口、リトルイタリーまでは徒歩15分ぐらいの場所にあった平面の青空駐車場(1日最大600円)によく駐車していました。

この駐車場があった場所に、のちにギラヴァンツ北九州のホームスタジアムとなる「ミクニワールドスタジアム北九州」が建設されることになるのです。

私が小倉に住んでいた時は、まだ九州リーグのニューウェーブ北九州の時代。J創設期に活躍していた藤吉信次さん(現福井ユナイテッドFC監督)が加入するなどJ加入に向けて街が盛り上がり始めていた時期でした。

当時は試合を見に行く機会がありませんでしたが、ミクスタ完成前のホームスタジアムだった本城陸上競技場では何度か草サッカーの試合をやったことがあります。(補助競技場だったかも)

あと、ギラヴァンツ北九州のスタジアムDJを務める八木徹さんは、私がCROSS FMに出入りしていた時に何度かお見かけしたことがあります。CROSS FMの話はまたいずれどこかで。


さて、リトルイタリーでのアルバイト時代は、ほぼ調理に携わっていませんでしたが、マスターが料理を作っているのを横で見ていましたので、パスタや焼き飯は勝手にレシピを盗んで今でも私の得意料理です。

私が焼き飯の仕上げに醤油とパプリカパウダーを入れるのは、リトルイタリーのマスターから受けた影響です。

マスターは、今どこで何をしているのか・・・。今も小倉の雀荘に通っているのかな?今も若い彼女がいるのかな?今でもヒップホップを聞いているのかな?

マスターのことだから、独りで好きなことをやっているのではないかと思います。生きているとしたら70歳前後のはず。

マスターみたいに豪快な生き方は私にはできないけど、若い人と積極的に関わりを持つとか、何でも興味を持つとか、そういった姿勢は、年齢を重ねた今だから分かってきましたが、マスターの姿勢を見習いたいものです。

もうマスターには二度と会うことはできないと思いますが、いずれ小倉に行く機会があったら、かつて「リトルイタリー」があった場所にあるフランス料理店に入って、マスターのことをまた思い出してみたいと思います。

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