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日本的な永遠さを感じさせる聖域の全貌──植島啓司 松原豊『伊勢神宮とは何か 日本の神は海からやってきた』

「遷宮においてもっとも重要なのは(いかなる宗教儀礼においても言えることだが)、始まりの時に戻って、すべてが生まれてくる原初の行為を繰り返すことなのではなかろうか。時間の経過によって衰えたエネルギーを回復するという点にこそ遷宮の本質を見つけねばならない」「ここで問題となるのは「時の繰り返し」「反復」ということであった」。

20年に一度行われる伊勢神宮の式年遷宮の中に植島さんは東洋(中国)でどのように〝永遠〟というものをとらえ方ていたかを考察しています。
ふつう式年遷宮は「「常若」という考え方、つまり、神さまはつねに新しく正常な場所を好み、新しい社殿によってさらに大きな力を発揮できる」という考え方や、「匠の技術の継承」といった面で捉えがちですが、植島さんはその見方では実は日本人の持っている(感じている)〝永遠〟というものを捉え損なっているのではないかと指摘しています。たしかに「出雲大社をはじめとする他の神社でも式年遷宮は行われてきたが、それほど大がかりなものではなく、一部を修理したりすることでまかなわれて」おり、伊勢神宮のような規模では行われていません。

植島さんがそこにみた〝永遠〟とはどのようなものでしょうか。
「西欧では石造りの荘重で厳粛なゴシック建築のようなかたちで「永遠」をつかまえようとする」が、それに対して「日本では(永遠の)「繰り返し」ということが大きな意味を持ってくる」ものだと記しています。『方丈記』を例に引いて「川の水は絶えず変わるけれども流れは変わらないという発想。そのようにして万物が繰り返されるということに価値を置く」とも続けて記しています。
それは神道が水に深く関係していることをも伺わせます。

式年遷宮は20年に一度といわれていますが、途絶えていた時期もあったそうです。といっても「祭事」が途絶えることはありませんでした。こうして継続されてきた「祭事=神事」の中で植島さんは「床下の秘儀」というものに着目します。
「床下の秘儀と呼ばれるものは、わざわざ床下を選んで行われてきたわけではなく、当初からそこが神事の中心であったのに、後にそれに覆いかぶさるように社殿が建てられたので結果的に床下になってしまったということである。そしてそれを執り行ったのが斎王でもなければ神宮禰宜でもなく、幼い少女(大物忌)だったという点にも注目しなければならない」と。
そして後にそこの上の社殿に「ご神体とされている神鏡」が安置されるようになったのです。アマテラス信仰としての伊勢神宮の完成というものなのかもしれません。

それは、あたかも本来の地主神がアマテラス・トヨウケ神がこの地に祀られるなかで帰属していったことを象徴しているかのようです。
この本は、こうして成立した(7世紀ごろだそうです)伊勢神宮の、誤解をおそれずにいえば謎の中心を追ったものです。宗教人類学の知見あふれる分析によって明らかにされる伊勢神宮成立以前の信仰神(サルタヒコ、アメノウズメといわれています)がどのようなものとして捉えられてきたか、またその神々がどのように今祀られているのか、とてもスリリングに語られています。とりわけ異神とも呼びたくなるようなアメノウズメの意味を追うくだりは、それを強く感じました。

ところでこの「床下の秘儀」は明治政府によって廃されてしまいます。そして「神宮全体を支える秘儀とも言うべきものを失った伊勢神宮は、それ以後ますます合理化された姿を露わにするようになって」いきます。
それは〝永遠〟の終焉なのでしょうか。
それは私たちがなにを〝繰り返す〟かによって定まるものかもしれません。

海からやってきた神々が作り出さした広大な〝聖域〟のフィールドワークと美しい写真の数々によって編まれたこの本は伊勢神宮の魅力とその淵源を感じさせるものでした。

書誌:
書 名 伊勢神宮とは何か 日本の神は海からやってきた
著 者 植島啓司 (写真)松原豊
出版社 集英社
初 版 2015年8月17日
レビュアー近況:昨日の「キングオブコント2015」、優勝したコロコロチキチキペッパーズ、面白かったですね。野中が一番好きだったネタは、藤崎マーケットの一本目でした。

[初出]講談社BOOK倶楽部|BOOK CAFE「ふくほん(福本)」2015.10.12
http://cafe.bookclub.kodansha.co.jp/fukuhon/?p=4261

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