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ずっとなりたかったんです。詩織様の、下僕に「、を喰らう」第二章 ー 3 【、を舐める】

***

 氷山の家にはすぐに着いた。

 まだ築年数の浅そうな大きなマンション。
 入社二年目でこんなところに住めるものだろうか。しかも住んでいるのは最上階だという。

 氷山は愛想以外なんでも持っている。

「どうしてこんなに立派なところに住めるの?」

「ここは親戚の所有しているマンションで、手頃な価格で貸してもらえたんです」

 氷山はエレベーターのボタンを押しながら淡々と答えた。

「いいな。こんな素敵なところ、羨ましい。きっと夜景も綺麗だろうね」

「そうかもしれないですね」

かも・・って……。外、見たりしないの?」

「見ません」

 もったいない。
 だけど、氷山らしい。

 流れるような線で描かれた氷山の横顔を盗み見していると、すぐにエレベーターがきた。
 私に続いて氷山がエレベーターが乗り込み、最上階のボタンに指をのばす。扉は静かに閉まり、エレベーターは上昇していった。

 氷山と私。
 エレベーターという密室の箱に、ふたりきり。

 途端に酸素が薄くなる。
 氷山からはなんだかいい香りがする。霧が立ち込める青緑の森と、そこに棲む獣のような静寂で攻撃的な香りが。

 香水のような人工的な香りではない。
 おそらくこれは、氷山自身の香り。

 どうしよう。

 エレベーターで二人きりになるだけでこんなに動揺しているのに、氷山の家に入ったら私はどうなってしまうだろう。

 カラカラカラカラ。回し車で廻るハムスターのように、私の頭のなかは「どうしよう」だけが廻る。

 重い玄関扉の先――通された氷山の家は、想像以上に完璧で潔癖な氷の世界だった。

 床も天井も壁もインテリアも、どこを見ても黒、黒、黒、黒。
 境界線が曖昧で、自分が黒に溶けたような錯覚を抱く。

 丸みを帯びたものは一切ない。
 すべてが真っすぐで、すべてが尖っていて、すべてがひっそりと冷気を放っている。

 本当に氷山はここで生活しているのだろうか。
 生活感がまるでない。モデルルームの方がまだ生活感がある。

「ソファーに掛けてください。飲み物はコーヒーと紅茶、どちらがいいですか」

「じゃあ、コーヒーを」

「ホットとアイスは」

「アイスでお願い」

 海外ドラマに出てくるような広いキッチンで、氷山はコーヒー豆を挽きはじめた。氷の世界にほんのりと人間界の香りが混ざる。

 まさか豆からコーヒーを淹れるとは。コーヒーには拘りがあるのだろうか。会社では知ることのなかった、氷山の一面。

 それにしても――首から肩にかけてのラインだとか、想像していたよりも逞しい腕だとか、しなやか指先だとか、やはりどこを切り取っても氷山は素晴らしい。

 細部まで完璧にきれいで蠱惑こわく的で、惹きつけられる。

 スーツの上からでは見えなかった氷山の身体のラインを、私はひっそりと視線でなぞった。

 生絲のように繊細な線と、流木のように力強い線でバランスよく構成された身体。
 許されるものなら、視線ではなくじかになぞりたい。

 まずは人差し指で、次に唇で、そして舌で。
 ゆっくりと形を、温度を、匂いを――すべてを感じながら、なぞりたい。

 きっと私はそれだけで絶頂を迎える。

 氷山に触れることができたら、知らなかった扉を開けられるような、新しい扉を手に入れられるような、そんな気がする。


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