表紙

『新・養生訓 健康本のテイスティング』発売! 序章を特別公開します。

BuzzFeed Japanというインターネットメディアで医療記事を担当している記者の岩永直子と申します。noteでは初めまして、ですね。

この度、ご縁がありまして、感染症の専門医、岩田健太郎先生と「健康本」を批評する対談本を丸善出版さんから出版していただきました。

その名も『新・養生訓 健康本のテイスティング』です。

巷に出回る健康本には、医学的に見て、いい加減な情報を載せて読者を惑わせるものがいっぱいあります。

でも、新聞広告などを見ていると、何回も増刷を重ね、何十万部と売れている人気分野であることも確かですね。当然、その影響が気になります。だまされて健康被害を受けないためには何に気をつけたらいいのか、岩田先生と共に本の内容を味わいながら、考えていくやりとりをそのまま記録した本です。

対談全景

『養生訓』と言えば、江戸時代の儒学者、貝原益軒先生が書かれた健康本の古典中の古典。その名を借りるのもおこがましいような気がしますよね。

でも、岩田先生は毎回、本の内容をぐんぐん脱線し、治療とは何を目指すものなのか、健康とは何か? 医者と患者の理想的な関係は?と、私たちが自分の体や医療と付き合っていくための根本的な問いに対し、豊富な知見を惜しみなく披露してくださいました。まさに現代の養生訓になっているかと思います。

「テイスティング」となっているのは、岩田先生がシニアワインエキスパートの資格をお持ちだからなんですね。呑兵衛を名乗りながら私はワインのエチケット(ラベル)の読み解き方も、繊細な味わいもわからないのですが、たくさんワインを飲んできたので、美味しいかどうかはわかります。

医療情報とワインは違いますが、この医療情報は丁寧に手をかけられて作られたものだよ、そもそも材料(内容)が高品質だよ、見せ方が誠実だよということを、ワインを味わうようにじっくりと吟味しました。

さて、今回、出版社の許可をいただきまして、本書の序章を丸ごと公開します。「批評する」とはどういうことなのか、岩田先生と私の考えのすり合わせをした章ですが、書き手としても、どのような態度で読者に向き合うべきかを語り合っている章です。この本の全ての章を貫く姿勢が見えると思いますので(対談と言いながら、ほとんど岩田先生の独演会ということもw)、どうぞご一読ください。

序章:ダイアローグ(問答法)

クリティークの作法、「ヒト」でなく「モノ」を普遍化する議論

岩永 この対談では、バズフィードの本、『健康を食い物にするメディアたち』も対談図書に入っており、私も当事者として内容にタッチしたので、今日は、岩田先生を前に「俎板の鯉」のような心境です(笑)。

岩田 共著のような感じですか。

岩永 朽木君がバズフィードの記事を元に書いた本でして、彼は部下なので、私が原稿を全部読んでチェックもしてるんです。私の記事も一部引用している箇所もあり、いろいろ意見も言っています。本にも「BuzzFeed JP Medical」と印字してあるので、バズフィードが責任編集した本になります。

岩田先生対談1

岩田 これから健康本をレビューするのですが、まずはクリティーク(critique:批評)するに際して、どのような方法が適切か…というところからお話したいと思います。文学ではクリティークのやり方はいろいろあって、昔、筒井康隆の『文学部唯野教授』で揶揄されたというか、文芸批評も方法論があるようなないような感じですが、健康本批評についても方法論が必要だと思うんですね。健康に関する本も、「何をもっていい健康本とするのか」「何がいけないのか」という判断の基準が必要です。それがなくて「いいとか」「悪いとか」いうのは単に自分の好みを押しつけているだけで、それではアマゾンのレビューにありがちな好き嫌いの無責任な表明にすぎない。つまり、「普遍性」とか「一般化」の可能性のない議論はクリティークとは言えないのです。やはり他人が読んで、同じ基準でクリティークできるものだけが、クリティークとしての命を持つことができると思います。
岩永さんから「俎板の鯉」というコメントがあり、「本を非難されるから…」と思われているのかもしれませんが、本来クリティークというのは決して否定することではなくて、コンテンツの中で「ここがいい」とか、逆に問題があるとすれば「どこが問題なのか」ということを順序立てて説明できないといけません。それから大事なのは、著者そのものとか、著者個人の「ヒト」を批評するのではなくて、あくまでも本の内容をクリティークするわけです。

岩永 「ヒト」でなく、「モノ」を批評するわけですね。

岩田 はい。そして本の内容が100%ダメということも、100%いいということもまずあり得ないので、各論的に「どこがよくて」「どこが悪いのか」をきちんと論理的に言えて、そのことに妥当性があると。それからカール・ポパーもよく言っていますが、そのクリティークに対する「反論」もきちんとできること(反証可能性)。つまり、「あなたの言っている意見については、これこれこういう根拠で、やっぱりおかしいんじゃないの…?」と反論できることがクリティークの妥当性を担保しているわけです。「これって、俺的にダメだよね」(笑)みたいなのは、反論ができない意味においてもクリティークになっていません。

本のストラクチャーも大事な要素

岩田 それと、今回いろいろな健康本を読んでいて注目したいと思ったのが、一つは「コンテンツが妥当であるかどうか」。つまり、「この食べ物は体にいい」という主張をしたときに、その主張が何を根拠として妥当としているのか、きちんと本の中で説明できており、かつ「その説明自体も妥当であるかどうか」という点をクリティークの根拠にしたいと思うのです。もう一つは「ストラクチャー(構造)」です。

岩永 本の中身だけでなく、本の構造、つくりそのものも見ることが大切ということですね。

岩田 結論を申し上げますと、自分たちの主張の結論の裏付けが明示されている本は、いい本。例えば、「クルクミンがどこそこに効く」などの記述があるけど、なぜそうなのかの説明が観念的で、根拠となるデータや文献が明示されていない。もしくは書いてはあるのだけれど、わかりにくく書いてあるとか、そういうのは「本のストラクチャーとしてよくない」のです。このことは著者だけではなく、出版社の問題、あるいは編集者の問題でもあると思います。僕も経験がありますが、編集者の中にはとても不誠実な方がいて、「そんな引用文献なんて必要ない」とか、せっかく文献を入れたのにカットしてしまう方もいました。じつは岩永さんの古巣の『ヨミドクター(yomiDr)』からの依頼がそうだったんです(笑)。

岩永 『ヨミドクター』は、文献を付けるようにしてたんですけど…、すみません。

岩田 岩永さんが編集長の頃のことではないと思いますが…。

岩永対談1

岩永 アハハ…(笑)。私が編集長の頃は、腫瘍内科医の勝俣範之先生が文献をつけることにこだわられて、それ以来、どの先生でもどんな文量でもつけるようにしていました。医師からは大変評価されていましたが、正直、一般読者がどれほど参照していたかはわかりません。ただ、参照されないとしても、きちんと根拠をもって書かれた文章なのだという信頼性は感じてもらえたと思っています。

岩田 文献が明記されているか否かは、その本が科学的かどうかの命です。でも編集者の中には、「そんなものはいらない。読者は欲していない」とカットする人もいるんですね。

岩永 新聞だと紙面も限定されるので、すべての文献表記は難しいところがありますね。

岩田 新聞は最初から枠が決められているので、ゼロサムゲームで仕方ないと思いますが、書籍はページを増やせばいいだけですので、そこは著者と編集者の誠意の問題、つまり「やる気の問題」なんです。今回の対談図書の一冊、『食事のせいで、死なないために』の文献はURL表記があり、ウェブで確認する仕組みですが、これはあんまり親切ではないと思います。いちいち読者がURLコードをタイプして、ウェブにアクセスしないと見れない。

岩永 最近はQRコードで見せるという本もありますね。どれほど参照されているのでしょうね。

岩田 PubMed のIDコードしか載せていなくて、もう一度文献を検索しなければならない本もあります。要はあまり文献を読ませたくないという態度がありありの本でして、誠実とはいえない。それと引用文献があっても文献番号を入れてなくて、「どの文章の」「どこで」「何を引用している」のかがわからず、参考文献であっても、「どこが引用で…」「どの箇所が著者の考えなのか…」が区別できない。その辺は編集技術や編集者の誠意が反映されるのだと思います。つまり「読者にきちんと伝えるために手を抜かない」のか、それとも「要は売れればいいんだ」とするスタンスの問題です。

岩田先生横顔

後者の場合、とにかく読みやすくて、わかりやすくて、読者のド胆を抜くワードを散りばめて、たくさん売れればええやん、という編集者なり出版社の姿勢が見え見えなんです。なので、コンテンツがよくても、ストラクチャーがダメな本はダメだと僕は思います。だって、科学論文のつくり方にはきちんと決まりがあって、「前向き臨床研究はこういうふうにつくる」「動物実験はこうしなければいけない」「メタ分析はこうする」と、全部方法論が確立されているわけです。そのためのチェックリストやガイドラインもあって、つくり方のお手本が示されていて、それに沿って科学論文を提出しないとアクセプトされない。ところが健康本は適当につくって、ぶっちゃけ嘘八百であっても許されてしまう。ファクト(真実)もフェイク(嘘)もごちゃまぜにしても文句を言われない。文句を言われたとしても、知らんぷりしていれば、それでまかりとおっちゃう。それではアカンのです。ですから健康本というのは、「こういうふうにつくらなければいけないんだ」という雛形が必要だと思うのです。それをこの対談で論じたい。

読者によっても見せ方を変えるべき…?

岩永 でも、私は読む対象によって根拠の示し方は変わってもいいと思うんですね。医学者や研究者が読む本は引用文献をがっちり巻末に入れるというのは、批判的検証のために必要です。一方、ウェブとかも見ないようなおじいさんとか、明らかに文献を読まない人に情報を送り届けるときに、文章の中にそこまで入れてしまうとかえって読みづらくなってしまいます。

岩田 それは違うと思います。読もうが読むまいが、本には文献をきちんとつける。飛ばし読みするのも、流し読みするのも、それは読者の自由です。でも、「この本にあるこのコトバって、どこから来てるんだろう…?」と思ったときに、読者に調べる自由が与えられていないことは問題で、参考文献はあるけど、文献番号が明示されていない本というのは、「読者はそんなもん求めていない」という読者を侮った編集者の思い込みなんです。もちろん「いらん」とする読者がほとんどかもしれませんが、「100人に1人でもバリデーション(妥当性を検討)したい」という読者がいるかも…という「想像力」を編集者は持つべきなんです。

岩永 なるほど…。ただ、文中で、何を根拠とするデータかを科学的に厳密に表記し過ぎるために、読みにくくなるという問題は、一般読者向けの書き手としても編集者としても気になります。そういう本も読むことがありますが、読みやすさとのバランスは考えたほうがいいと思います。

岩田 僕がこれまで関与した編集者、特に一般書の人たち、それと週刊誌や新聞の人たちは、読者を見下しすぎなんです。「読者って、所詮こんなもんだから、甘いつくりでもええやろ」と思っているように思います。テレビ局もそうですね。番組としてわかりやすくておもしろければいい、というつくり手が多いと思います。村上春樹の偉いところは、文章は読みやすくてすらすら読めるのですが、内容(質)については絶対割引しないことです。そのことは、僕も執筆するときはいつも心がけていて、中学生が読んでもすらすら読める文章を書きたいと自分に課しているのですが、内容は値下げしない。

岩永 雑に書いたり、嘘を書いたり、誇張しないわけですね。

岩田 ええ。「わかりやすさ」と「内容の確かさ」というのは、本の中で同居できると思っています。実際に今回読んだ本の中にも、読みやすくてわかりやすくて、内容もしっかりしている本というのはありましたね。

岩永 どの本でしょう…。

岩田 『スタンフォード式 最高の睡眠』です。『世界一シンプルで科学的に証明された究極の食事』も巻末に文献は載せているし、同書の165頁で「インターネットを使って正しい健康情報を入手する方法」で、英語のウェブサイトや英語で書かれた論文は日本のものに比べてしっかりしていて、ウェブのニュースでも論文のリンクがちゃんと貼り付けてあると指摘しています。だけれども、NHKや新聞社のニュース記事は元論文のリンクをほぼ貼ってないです。

岩永 バズフィードの記事は必ずリンクを貼っているので、見ていただきたいです。

岩田 それがあるべき姿と思います。しかしながら、例えば、ヤフーに引用されるような大手新聞社の記事は、そういうことをしていません。したがって裏が取れないし、裏を取るために読み手が苦労しなければなりません。ひどい場合は、一生懸命記事の裏をとって元文献を読んでみると、じつは「そんなことが書いてなかった」なんてこともあります。

岩永 ウェブだとリンクは簡単に貼れますし、巻末に参考文献をつけても文章量を気にしなくていいので、やりやすくはなったと思います。

岩田先生カオス

ちゃんとやれば、できないことはない

岩田 新聞は紙面の制約もあるので無理なのでしょうが、ウェブはコンテンツの大きさについて伸縮自在なので可能ですよね。そういうことからも新聞は「GoneContent(捨てられてゆく)」になってしまうわけです。たぶん今後は、タブレットなどで新聞は読まれる時代になり、紙がなくなってゆくと思います。すると記事ごとに文献リンクが貼られていないと、情報のクオリティが確保できません。もっと言うならば、紙媒体だから薄い、というのも思い込みに過ぎません。例えば、『ニューヨーク・タイムズ』の日曜版なんてめっちゃ分厚いです。元旦の日本の新聞くらい厚い(笑)。電子版となれば、新聞は薄いものとか、そういう概念が変わってゆくと思うのです。
アメリカに住んでいたときに思ったのは、アメリカの新聞、特にクオリティ・ペーパーは記事がしっかりしていることです。ちゃんと取材しているし、書きなぐった感じがなく、日本だったら何時間もインフルエンザの取材を受けたのに「新型インフルエンザは怖い(!?)と思う」みたいな記事になってしまって、紙面の関係でそれぐらいしか載せられないのかもしれないけど、それでは何のメッセージ性もないじゃないかと思うわけです。『ワシントン・ポスト』は、発行部数は少ないけれども、3ヶ月ぐらい取材をして記事にするそうです。「デイリー・ペーパーはこんなもの」というのは決めつけにすぎないので、ちゃんとやればできないことはないと思うのです。その意味でも外国の事情と比べるのは大事だと思っています。

岩永 日本の新聞で働いていた者としては、それこそ3カ月間取材して記事にするものもあれば、その日のニュースを1日で取材して記事にするものもあるので、日本の新聞記事がすべて薄いというわけではないと思いますよ。まぁ、メディアの人間として耳が痛いです。医療の現場ではどうなんですか…?

岩田 日本だとできっこないと思われている事柄が結構あって、例えば、「日本の医療現場だと、女性医師の活躍は無理…」とか、そんなの、外国の医療現場なんて女性医師で回している国なんていくらでもあるわけで、回せてないのは日本の医療現場のストラクチャーが悪いからだけなんです。本質的に女性が医者に向いていないのではなくて、要は日本の医療現場が男中心でつくられているだけの話で、それを変えれば女性医師が活躍できるわけです。日本だけが患者が多いとか、日本だけが救急患者が多いとか、そんな特殊な現象なんてありませんよ。アメリカでは何十年も前に「ベル・コミッション」としてルール化されています。アメリカの医療現場も患者は多いし、急患も多いし、心臓疾患の患者は日本の倍以上いると思いますし、病院が忙しいのはどこも一緒なんです。要は、日本は仕事の仕方が下手くそなだけです。そして、こういうシンプルな事実も、外国のデータと比較することによって容易に確認できる。日本の内情だけで議論するのはあまりに稚拙です。

岩永 なるほど。今、医師の働き方改革が議論されていますし、東京医大の女子受験生差別問題で、女性医師の働き方が問題になっています。ただ、確かに医師を病院の機能に応じて集約化したり、当直の方法を工夫したりして、男性医師だけが長時間労働にならない工夫をしている病院もありますね。そもそもの男女の役割分担や仕事とプライベートの切り分けなどの意識改革が必要だと思いますが、日本では現状維持の圧力が強い気がします。健康本も専門家からの批判が多いのに、「これが売れる」という業界のお約束からみんな抜け出せていないのは、なぜなのでしょうね。それでは早速、本題に入りましょうか…?

岩岩

(最後になりますが、編集を担当してくださった程田さん、どうもありがとうございました! いつも締め切りギリギリになって、すみません。noteでのこの記事もやはりギリギリになってしまいましたよ…)


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