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なぜ人は加害者ではなく被害者の方を責めるのか?

 しばしば私たちは奇妙なことだが、何が災難があったときに、その災難の「被害者を責める」ことをしがちだ。例えばひったくりにあった人に対し「夜中そんなところを一人で歩いているのが悪い」みたいに。ただでさえひどい目にあった人に対し「お前が不注意だったのが悪いんだ」と厳しい言葉を人は浴びせがちだ。泣きっ面にスズメバチ。

 これはどういうメカニズムだろう。幾つかの心理学の概念を用いて説明することができる。

 まず、第一のキーワードが「共感」だ。

 意外なことだが被害者を責める人々には「被害者の痛みへの共感」があるのではないかと思う。人間にはミラーリングという作用があって、他人の痛みを自分の痛みのように感じる。テレビとか見てて、人が痛い目にあうシーンを見ると、自分も痛くなる、アレだ。まず、「被害者を責める人」は、意外なことだが「被害者の痛みを自分ごとのように感じる、共感しているのだ」と考えてみよう。

 第二のキーワードが「自己効力感」だ。

 これは、自分は何らかの課題を解決できると感じる、という自分自身の効力への自信のことだ。人は、これを満たすと気持ちがよく、これが損なわれると不快に感じる。で、目の前に不幸にあった被害者がいる。その痛みを自分ごとのように感じる。ところが、それを見る私たちは、相手の(≒自分の)痛みを取り除くことができない。例えば相手が失ったものを補ってあげたり、傷を癒やしてあげたりすることができない。そこには「悲しみを解決する上で、無能な自分」というものがある。これを認めてしまったら、自己効力感が傷ついてしまう。どうする?

 そこで、第三のキーワード「防衛機制」だ。

 人は自分の心が傷つきそうな時、自分を守るため防衛機制というメカニズムを働かせる。それにはいくつか種類があるが、ここで出て来るのは「合理化」というものだ。何かと理由をつけて、自分自身の正当性を確保したり、ほかのものに責任転嫁をしたりすることを指す。つまり、自分が無能なのではない。相手が悪いから当然の報いを受けたのであって、それを補えない自分が無能なのではない。

 無論、「たまたま相手が不幸だったのだ」と考えることもできるはずだ。しかし、それは別種の不安をもたらす。つまり、相手が悪いわけではないのにひどい目にあったということは、いずれ自分だって被害に合うかもしれないってことを認めることになる。これは不安なので、その解釈はしたくない。あくまでも、人が被害に合うのは、その人がおかしなことをしたからなのだ。そう考えないと、何をしたら安全かわからなくなってしまうので、自分にとって都合が悪い。また、今自分がいい感じなのも、実はたまたまの結果であって、自分の努力や実力の賜物ではないかもしれない、と思えてしまって、ますます不安になる。

 これが第四のキーワード「公正世界信念」だ。

 人は、この世界では、全ての正義は最終的には報われ、全ての罪は最終的には罰せられる、と信じたがる。この信念を「公正世界信念」という。この信念に基づいた世界観の仮の説明を「公正世界仮説」という。

 これらのキーワードをあわせて考えると、不幸は被害者本人の過失によると考えることで、自分が共感した相手の不幸を解決できないという己の無能を認めてしまうことで生じる自己効力感の損失を回避でき、さらに不幸を回避するために自分にできることがあるという確信を持てて安心できる。大変合理的だ。

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 このような心理メカニズムで、人は被害者を責めると考えられる。しかし、被害者を責める泣きっ面にスズメバチシステムを放置することは、社会的に大きな損失につながる可能性がある。どうにか処方箋を考えられないか。

 第一に、「自他分離」だ。発達障害者はこれがひどく苦手な傾向があるというが、定型発達者でもきっと程度の差はあれ、根本的には同じだ。相手の痛みに過剰に共感しないのがよいだろう。関西弁でいうところの「知らんがな」。知らんのだ。知らん上で、どうにか助けようとすることは問題ない。

 第二に、「不完全さを赦す慈悲のマインドセット」だ。例えばこんな記事がある。

自尊心は妄想的か不確かかのどちらかで、いずれにせよ良い結果につながらないからだ。自分は素晴らしいと常に感じているために、現実から自分を切り離すか、自分の価値を証明するために無限に走り続けなければならない。いつかは自分の期待値に届かず、ひどく落ち込むことになる。また、執拗(しつよう)に自分を証明し続けるので心身が疲れ、不安で落ち着かないのは言うまでもない。
一方、自分への思いやりは、事実に目を向け、あなたが完璧でないことを受けいれる。著名な臨床心理学者、アルバート・エリスがかつて言ったように、「自尊心は、男女を問わず厄介な病である。常に条件付き」だからだ。片や、自分への思いやりがある人は、絶えず自分を証明する必要にも駆られず、また、調査によれば、「敗北者」だと感じることも少ない

 我々は、「ある理想的な完全状態」を望む。しかし、それは「見果てぬ夢」であり「現実には有りもしない願望」なのだ。老わず、苦しまず、死なず、永遠に美しい身体を夢見ても、それは決して叶わない。なるほど、ありもしない完全性を「あるに違いない」と思えば傲慢と自信過剰になるし、あることを前提として「ないかもしれない」と思えば不安とうつに苦しむ。

 それに対しおもいやり、すなわち慈悲のマインドは、自分がそもそも不完全でしかありえない(=しょうがない)ことを認め、赦すことと解釈できる。そういえばわたしも、不完全な人間の割には、大した悪も犯さず、良く生きてる。これが期待値コントロールだ。関西弁でいうところの「まあ、しゃあないわな」。我々の完全であることはできない。どうしようもないのだ。

 第三に、世界はたまたまで動く、人からすれば不公正な部分が大きいものだと認識することだ。例えばこんな研究結果がある。

 幸運・不運な出来事が無作為に散りばめられた典型的な40年のキャリアを通じて個人を追跡。富は、幸運な出来事によって増え、不運な出来事によって減るものとされた。
 シミュレーションの最後には、全員が資産順にランク付けされ、その資産が形成された経緯や、成功者に共通の特徴の有無を見極めるため、チームが各個人の「人生」を詳細に分析した。また、このプロセスを数回繰り返し、結果にずれがないことを確認した。
 富の配分は現実世界のデータとおおむね一致していた一方で、富の分布は才能の分布とは一致しなかった。むしろ最富裕層は、才能面ではトップから程遠い結果となった。
 では、富をもたらしていたものは何か? それはどうやら、純粋な幸運のようだ。チームが幸運度を元に個人を順位付けしたところ、幸運と全体的な資産の明確な相関関係が示された。最も幸運だった層は資産の面ではほぼ最上位に入った一方で、最も不運だった層は最底辺近くに入ったのだ。

 ぼくらは、適切な行いをすれば良い結果が、不適切な行いをすれば悪い結果が伴うと信じている。このように、行いと結果が公正に結びつくという信念を「公正世界信念」という。しかし現実には、どうやら結果は運によるらしい。これ自体は別に驚くようなことではないのだが、記事のタイトルにもあるように「驚きの研究結果」に見えるのは、ぼくらに上のような信念があるからだ。

 思うに、世界は予め人に対し公正なのではなく、世界は人から見ればランダムで不確実でひどく生きづらいからこそ、「人間社会は人から見て公正になるように設計しよう」と心がけてきたはずなのだ。もっとも、成功が運で決まってしまう程度には、私たちの社会はまだ設計が十分ではないというだけで。

 「天はランダムで二物を与える」という偏りがあるからこそ、「人の手で再配分」するのだ。税金として徴収して再配分するのだっていいし、贅沢して蕩尽するのだっていいし、人におごってあげるとかでもいいだろう。関西弁で何ていうかは、知らん。

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