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僕らはなぜ忖度をするのか − 山本七平『空気の研究』文春文庫、1983

 私たちの日常会話には、「空気を読む」という表現はしばしば現れます。この「空気」というものは一体なんなのだろう?色んな論者が様々な言い方で説明していますが、中でも古典である山本七平『空気の研究』を改めて読み直して、なるほどと思ったので覚書しておこうと思います。

 同書では、イスラエルの古代墓地の人骨を掘り返した時、その人骨を前にして、けろっとしたままのユダヤ人と、なぜか病気になる日本人のエピソードが対比的に描かれています。日本人は、その人骨に対して、「潜在的な何か」を読み取って、その結果、体調が悪くなったっていうんですね。有りていに言えば「たたり」的なものなのだろうけども、なんしか、目に見えない何かがあたかも実在しているかのように影響されたわけです。

 この「目には見えないな何かが、あたかも実際に存在しているかのように感じること」を、山本七平は「臨在感的把握」といいます。しかし、この臨在感的把握は、当然ながら、目には見えないし、言葉でも説明できない。だから、この臨在感的把握によって影響されてくだされた意思決定は、その決定までの論理の合理性を、事後になってもうまく説明できないものになるわけです。

 例えば同書では、どうしたって無駄に終わる事を示すデータが多数揃っていたにもかかわらず、戦艦大和を出撃させるという意思決定を下したという旧日本軍のエピソードを紹介しています。そして、その意思決定を下した当時の連合艦隊司令長官は、後の取材に対して、この意思決定について「戦後、本作戦の無謀を難詰する世論や史家の評論に対しては、私は当時ああせざる得なかったと答えうる以上に弁そしようと思わない」と発言したというんですね。

 まさに、「潜在的な何かに影響されて意思決定を下すが、その論理は、事後になっても合理的に説明できない」という現象があったわけです。このパターンを、山本は「空気」の基本型であるというわけです。

 じゃあその空気って、なんやねん、ということで、色んな人が色んな言葉を尽くして説明を試みているのを、僕らは見てきました。しかし、どうもしっくり来ないんですよね。その上で、同書を読みなおして、「なるほど」と改めて思ったのはなんでかっていうと、次の一文に当たったからです。

<それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ『判断の基準』であり、それに抵抗する者を異端として、『抗空気罪』で社会的に葬るほどの力をもつ超能力である>(P16)

 なるほどと。つまり空気とは、「それに抵抗するものを抗空気罪で葬る」根拠となるというんですよ。どうもここが空気のメカニズムを理解する上で、とても重要っぽいです。

 先述した通り、「空気」に影響された意思決定っていうのは「その論理は、事後になっても合理的に説明できない」ものになりがちです。それじゃあヤバいので、私たちは、どうにか「空気」の正体をつかもうと、色んな言葉を使ってきたように思うのです。しかし、どうも「空気」の正体をつかもうと、やっきになりすぎていたんじゃないかと。

 そもそも「空気」というのは、「空気」と呼ばれる程度には、目に見えず、掴みどころがないものなんですよね。それを、いくら目を凝らし、言葉で説明しようとしても、人間の素朴な観察力、表現力では追いつかないわけです。そんな事象を、私たちは無理してとらえようとしてきたわけです。

 しかし、人間の身体的感覚は、理性では追いつかない事象を捉え、反応することができるんですね。例えば意識して打とうと思えば打てないはずの球を、球技のプロ選手は打てる、なんていうのは、よく知られた話です。理性や意識に先立つ、無意識的な身体感覚を鍛えているからこそ、打てるわけです。そして、空気というものも、どうもそれに近そうで、無意識的な感覚では捉えられはするものの、理性的な観察や表現ではうまく捉えられないものなんですよ。空気を説明しようとする試みがいずれもしっくりこないのは、そういう事情によったのではなかろうかと。
 
 とすると、私たちは「空気」そのものを説明することに執着する必要は多分ないんではないか。むしろ「空気」に関して考えるべきは、「抗空気罪」者に対する権力の存在だったのではないかと。
 
 この思考のヒントとなったのは、最近流行りの「忖度」でした。忖度とは「他人の心をおしはかること」とされ、森友学園問題で一躍有名なキーワードになりました。このニュースでは、忖度は「悪いこと」とされがちでした。しかし、本来でいえば、決してそんなことはないんですよね。忖度とは、他人の心を推し量ること、つまり、相手を慮ることなんですよ。

 おそらく、少なからぬ人がこう思ったのではないか。「それの何がいけないのか」と。むしろ、相手への思いやりは美徳と言われこそすれ、悪いことではなかったはずなんですよ。

 では忖度は、どういう場合にまずくなるのか。それは、「慮ること」ではなく、「慮ってくれないやつには、暴力を加える」という場合ですね。

 忖度において、「言語化できない何か」を「あっ…(察し)」するのは、優しさであり、思いやりなんです。空気も同じなんですよね。空気を読んで行動する。言葉ではうまく表現できないが、感覚的に大事と感じるものを大切にする。それの何がいけないのか。実際、空気を読んで行動する人が多いと、たしかにやりやすいことだってあるでしょう。それらは別に何ら悪いことではなかったはずです。むしろ、阿吽の呼吸で分かり合えることに美を感じ取る人だっていたことでしょう。

 空気のヤバい側面とは、「空気を読まないやつには暴力を加える」という、山本の言う「抵抗する者を異端として、『抗空気罪』で社会的に葬る」という性質なんですよ。

 何がヤバいかっていうと、抗空気罪なんて罪は、法に定められていないわけです。法に定められていないのに、攻撃を加える、というのは、要するに私刑(リンチ)なんですよね。その点がまずヤバいです。

 そして、空気とは、繰り返しますが無意識的な身体感覚なんです。それ自体が悪いわけではないです。しかし、山本も言うように、無意識的であるがゆえに合理的な説明をつけられない身体感覚なわけですから、人によって認識が大きくズレるし、言葉での共有も難しいものなんですよね。そんな感覚的なものだから、多人数で集まっての意思決定に反映しようとした途端、困ることが起こります。何か悪い結果に至った時に、そこに至った経緯が合理的に説明できないんです。だから事後的な検証や、今後に向けた対策が検討しにくくなります。そういう集団では、誰かに責任を押し付けたり、同じミスを繰り返したりしがちになります。これもまたヤバいです。

 空気を読んで、あるいは忖度をして、相手の意に沿った行動を取らなければ、殴られるかもしれない、いじめられるかもしれない、悪く言われるかもしれない、バツの悪い思いをさせられるかもしれない。そういう「暴力への不安」が、空気を読ませ、合理的に説明の付かない行動を強制させます。そして暴力はさらなる暴力を連鎖させます。そのような暴力への不安に抑圧された人々は、次は自分だとばかりに、周りに自分の気分を忖度させ、空気を読まないものへの暴力をちらつかせ、時に実行するかもしれません。これもまたヤバいです。

 このような「ある主体が相手に望まない行動を強制する能力」のことを政治理論では「権力」といいます。

 したがって、「権力」とは一般にそう理解されているように、国家や自治体といった「権力」、すなわち「公権力」に限定されません。「私」もまた目の前の「あなた」に対し、権力を行使するし、その権力を恐れた「あなた」は「私」を忖度するでしょう。そして、「私」は権力を用いて、相手に一定の行動を要請するでしょう。そしてそれは「あなた」と「私」の立場を入れ替えても同じことが起こるでしょう。

 空気とは、その意味では「私刑の可能性を有する権力者同士のパワーゲーム」であり、そのパワーバランスは、様々な要因から日々、細かく変動するわけです。あるときはある人が有利、別のあるときはこっちの人が有利、というように。

 その微細でリアルタイムな権力バランスの変動は、およそ言語では説明し尽くせません。言語による実況中継が追いつかないんです。人間の理性や言語能力では変化の流れを描写するのに遅すぎるんですよね。だから、空気を説明しようとすることは、リアルタイムに流れる車窓からの風景をスケッチしようとするような難しさが在るんです。結果、「空気」というように身体感覚で捉えるしかなくなるんですよね。

 僕らはどうにか空気の正体をつかもうとしてきました。しかし、空気をスケッチすることは難しいです。ただ、ここまでの議論を踏まえた私たちは、空気とはなにか、理性的な言語で表現することに拘泥する必要はないといえます。むしろ私達が気をつけるべきことは、空気をスケッチすることではなく、抗空気罪という建前で私達がうっかり他人に対する暴力を行使してしまうことを、押しとどめる倫理ではなかったか、と思います。

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