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「おっさん差別」から「差別」ということについて考えた話。

 こんな記事を読みまして。

 一昔前に、人権問題に関わる仕事をしていた時期があり、「差別」ってやつについては、ちょっと真面目に考えたことがあるんですよね。

 「差別」と「区別」って言葉があります。一般に、対象ごとに扱いを変えることを「区別」といいます。

 例えば男女で使えるトイレが分かれているのは区別ですね。例えば、それこそおっさんが女性トイレに堂々と入ってきたら、たぶんちょっとした騒ぎになるんじゃないでしょうか。

 あるいは既婚者が、自分のパートナーとそれ以外の人間の扱いを変えるのも区別ですね。そこの扱いを変えなければ、不倫とか言われる事態を招いちゃうわけです。

 僕らは、あるAとBという2つの異なる対象で扱いを変えていて、それを「区別」っていうわけです。

 でですね、じゃあ「あなたは特定の地域の出身者なので、結婚させません」とか「特定の民族の血を引くものなので、この仕事を任せません」とか言われたらどうでしょう?「ふざけんな!差別だ!」ってなりますわな。でも、そう言う側は「いや、これは区別ですよ」と言うかも知れないですね。

 つまり、「区別」の中でも、扱いを分ける理由に正当性のないものを「差別」というみたいなんですね。で、正当性ってのは、勝手に決まらないんですね。これを哲学的には「間主観的」っていうんですけど、「二人以上の人の間で同意が成り立っている」っていうことです。扱いを分ける理由が正当かどうかは、当事者の同意の有無で決まるわけですから、同意に先立っては決まらないんです。かっこよく言えば「アプリオリには決まらない」ってわけです。

 なので、「ある人にとっては正当な区別のつもりで行った扱い分けが、別の人には差別に見える」てことが起こるわけですね。

 例えばさっきのトイレの件でもそうで、じゃあ「私は男性の身体を持っていますけど、女性トイレじゃないと緊張してできないんですよ!」っていう人からすれば、男性は男性トイレを使いなさいっていう扱い分けは、同意し難いものでしょうし、したがってその人からすれば現在の男女をデジタルで分けるトイレは大いに差別であるとみなせるでしょう。

 また、特定の民族の血を引く者は雇いません、っていう人も、そうされる側からすれば納得し難い差別でしょうけど、じゃあその雇う側も、例えばかつてその民族に戦争でボコボコにされて、未だに憎しみが消えない、みたいな場合、その扱い分けをつけることは当然の区別だよといいたいんじゃないでしょうかね。

 つまり、ある扱い分けが正当か不当かということについて、当事者同士の間で同意を作っていくプロセスが必要なんですね。まあ、このプロセスはひどくめんどくさい話なんで、泣き寝入りになるケースも多いんですけど、中には諦めず立ち向かった人達っていうのもいて、歴史的には女性の人権運動とか、部落解放運動とか、公民権運動みたいなことになったわけです。

 じゃあ、いまなぜおっさんは差別されているのか。おっさんの差別が根強いからか。いや、これ、多分「逆なんじゃないか」なあって。

 みんな差別されているんですよ、なにがしか。つまり、誰か他人から、納得し難い扱い分けを日々されて、傷ついているわけです。だけど、みんなそれに対し「ふざけんな!これは差別だ!」って声をあげて戦っているんですよね。教科書的な意味での「人権意識の高まり」ってやつです。つまり、扱い分けを変えることに不納得であることと、抵抗して戦う意思を表明する。その抵抗の意志を示した時点で、大抵の人はビビって、扱い分けの方を変えていきます。つまり、特定の属性の人を悪く扱うことを避け始めます。

 じゃあ、なんでおっさん差別だけは続くのか。それはここまでの話から推察するに、おっさんだけが「抵抗しない」からなんじゃないかなって。無抵抗主義っつうんすかね。いや、無抵抗主義は正確に言うと、抵抗はするんですけど、それを明示的な暴力で行わないっていうね。ガンジーのいう「アヒンサー」の系譜ですね。

 ガンジーは言います。「“目には目を”は全世界を盲目にしているのだ」と。ガンジーは、イギリス植民地政策に対して、殴り合いで抵抗するのではなく(非暴力)、不服従、非協力という形で抵抗し、インド独立を指導したといいます。おっさんは、おっさんくさいといわれようと、老害といわれようと、それらのおっさんに向けた攻撃に対して無抵抗なんではなく、服従もしないし、協力もしないというガンジースタイルでの抵抗を貫いているのかもしれないです。で、いくら言っても変わらないおっさんというものに、さらに人々は苛立って、おっさんへの攻撃が過熱化していく、というフィードバックサイクルがあるのかもしれないなあ、なんていうことを、ひとりのおっさんとして想像しました、っていう話です。

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