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まちづくりをどう「続ける」か?〜道に迷わない達成度の確かめ方~

 本記事は、某所でまちづくり活動家向けに行った講演のまとめです。よく知られるように、住民参加のまちづくり活動は、すぐに目に見える効果が表れるものではありません。しばしば「まちづくりは東洋医学的な漢方治療だ」という比喩が行われることがありますが、飲んですぐ効く西洋医学的なお薬と違って、強い副作用がなく、毎日飲んで体質を改善していくような長閑さがあるものです。 

 これはこれでとても大切なことなのですが、一方でこの治療法にはつらい症状も伴いがちです。それは効果がすぐに見えないから不安になってしまったり、長く続けなければならないからマンネリや飽きを感じてしまったり、いつまでやればいいのかわからなくて疲れたりしてしまうことです。そうすると、まちづくりを続けることが難しくなってしまい、結果、長く続ければ得られたはずの望ましい効果を得られない、ということが起こってしまうのです。

 本講座では、これらの症状に対する対策を期待されていました。

 以下のような内容をお話しています。

1.達成度はなぜ「見えない」か

 先述の通り、まちづくりは長くじわじわ続ける営みであるがゆえに、すぐに見えないから不安になってしまいがちです。では、一体どんな効果が得られるといいのでしょう?自分たちの活動が何を達成できたのか、ということをはっきりさせるということは、すなわち、自分たちが「実現するといいな」と願っているまちのすがたはどういうものか?ということをはっきりさせるということでもあります。

 逆に言えば、自分たちが「実現するといいな」と願っているまちのすがたがはっきりしていなければ、達成度も見えなくなって当然です。

 「いやいやそんなことはない、私たちは、自分たちが、実現するといいな、と願っているまちのすがたをはっきり描けている!」という方もおられることでしょう。なるほど、ではどんな姿を描いているでしょうか。例えば「まちがにぎわっているといいなあ」とか「高齢者が安心して暮らせるといいなあ」というような語りがよく聞かれます。そして、そこで語った未来を実現するため、いろんなまちづくり活動を行います。例えば「まちのにぎわいのため、お祭りをしよう!」とか「高齢者が安心できるよう、見守り活動をしよう!」というようなことです。で、やりましたと。では、達成度はどうだったのでしょうか、というと、ここで急にわからなくなります。「お祭りをしてまちがにぎわったが、お店は儲かっている実感がない!」「見守り活動をしたけど、高齢者が安心できている実感がない!」というような事が起こります。こういうことが続くと、自分たちのやっていることと、結果とがつながっている実感が得られなくなります。達成度もわからなくなるし、やる気も失われていきます。まさに、冒頭で述べたような困りが発生してしまうわけですね。

2.エモいポエムにご用心

 ではなぜこれらのまちづくりは道に迷ってしまったのでしょう。それは、「まちがにぎわっているといいなあ」とか「高齢者が安心して暮らせるといいなあ」というような語りが、「目指したいはっきりとした姿」として、はっきりしていなかったためです。ぼくはこういった語りを「エモいポエム」と呼んでいます。

 間違えないでほしいのは、だから「エモいポエムは害悪だ」「エモいポエムを語ってはいけない」ということを言いたいわけではない、ということです。ポエムにはポエムとして必要な場面があります。しかし、ことまちづくり活動の達成度を図るためには十分ではない、ということです。ポエムはポエムで大事に。そのうえで、達成度を図るためのはっきりとした姿も描きましょうね、ということです。

 では、達成度を確認するためのはっきりした姿とはどうすれば描けるのでしょうか。それは、言葉の定義から考える事ができます。「達成度」とは「達成した度合い」のことですね。では「度」とはなにかというと、「どれくらいか、を表すめじるし」のことです。

 夢は基本的に、ぼんやりとしているものです。そもそもポエミーなんです。まちがにぎわっているといいなあ、若い人が増えるといいなあ、高齢者が安心して暮らせるといいなあ。大いに結構。しかし、これらのポエミーな夢は、「めじるし」(単位)がはっきりしていません。例えば、「にぎわってる」って、なにで測ればいいのでしょう?「安心」って、どうやって測ればいいのでしょう?

 こういう議論になると、しばしば私たちは「まちづくりは数では把握できない!気持ちが大事だ」という気持ち論を語りがちです。気持ち論も大切です。しかし、こと達成度を確かめる上では、これもまた十分ではありません。

3.とらえようのないものをとらえるための「代理変数」という考え方

 統計の考え方では、このような「直接観察することが難しいもの」を観察するために「本来の観察対象と密接に関わりがありそうな、別の観察可能なもの」を代理に選んで注目することがあります。これを「代理変数」といいます。

 例えば、慶應義塾大学の金子郁容さんがこんな事例を報告しています。

 その地域では、他聞にもれず、「いいまち」を目指してまちづくりをしていました。しかし、自分たちのやっていることと、成果とのつながりが見えず、どうしても達成度が見えなくなってしまっていました。そこでこのまちでは、地域住民の当事者を集め「いいまちってなんだろう?」というお題で語り合うワークショップを行いました。その結果、「子どもたちが登下校の時に挨拶できる人が多ければ多いほどいいまちだ」という合意が生まれました。つまり、「いいまち度」を直接測ることは難しいので、「子どもたちが登下校の時に挨拶できる人数」を、「いいまち度」を計る代理変数に設定したわけです。

 その合意を踏まえて、じゃあいま、このまちの「いいまち度」はどれくらいなのか?という調査を行いました。すると、子どもたちが挨拶をできる人数は、およそ3人程度であるとわかったそうです。そこで地域の方々は話し合い、「じゃあこれを平均5人にまで増やしましょう!」と話し合ったのだそうです。

 じゃあ、いま子どもたちが挨拶をできる人数が3人であるとして、それを5人に増やすにはどうしたらいいか、と考えます。例えば、挨拶励行や、子どもたちの知り合いを増やす運動などが考えられました。

 それらの活動を行った上で、時間をおいて再調査を行いました。すると、子どもたちが挨拶をできる人数が、3人から5人に増加していたことがわかったそうです。

 このように、観察可能な代理変数を設定することで、振り返りもしやすくなります。目標の達成に対し、何が効果があって、何が効果が薄かったかわかります。すると反省と検証ができるようになります。何をやめて、何を続けて、何を始めるか、ということを建設的に考える事ができます。そして、子どもたちが挨拶できる人数が増えたことで、もし地域の人達が「いいまちだ」と実感できなかったとするなら、「そもそも代理変数の設定は妥当か?」と見直す事もできるようになります。

 このように、数字に置き換えることを「はっきりさせる」という言葉で表現できるでしょう。「いいまち」ではぼんやりとしかえがけなかったことが、「子どもたちが登下校で5人に挨拶できるまち」ならはっきり描けます。数値に置き換えられるので、変化が線的に確認できます。そして、行為と結果の結びつきがわかりやすくなります。結果、努力もやりがいがでてきます。

 別の例も紹介しましょう。例えば小学校では、子どもたちに「元気よく挨拶しましょう」と指導することがしばしばあります。しかしその指導方法だと「どれくらいの声を出せば元気がいいのか?」ということがわからないので、指導する教員と子どもたちとの間に期待値のズレが大きくなってしまいがちです。また子どもたちも、どうすれば期待される結果につながるかわからないから努力できないという状況が起こります。結果、理不尽(理=説明が尽くされていない)に怒られる、ということも起こりがちです。

 尼崎市立長洲小学校では、この問題を解決するために、小型音量計「デジタル・サウンド・レベルメーター」 を導入しました。そして、いろんな声の大きさで実験した結果「2m離れた距離で、80db(デシベル)以上の声の大きさだと、元気良く聞こえる」という事がわかりました。そのうえで、子どもたちにもこの音量計を使ってゴールを示しました。このように数字を見える化した結果、90デシベルを超える元気な子どもたちもあらわれるようになったのだとか。

4.「わかりやすさ」には危険も伴う

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