きれいのくに(誠也・凛・れいら)

れいらは小学生の頃から誠也をずっと見ている。誠也は小学校の頃から、いじられがちな凛を守ってきた。誠也と凛は「お隣さん」同士の関係。お互いへの想いが幼馴染としての想い以上のものなのかどうかは、おそらく本人同士もいまいち自信がないのだろう。

れいらは自分より「地味」な凛に誠也に関しては敵わない。だからこそ、なのか、2人の間に「何か」を感じ取った時にはいつも、れいらは誠也を誘う。自分の方が華やかな容姿だし、自分の方が彼のほしいものを与えることができる。それでも誠也は「地味」で内気な、自分を「ブス」だと思い込んでいる凛を見つめ続けている。誠也が凛に今でも想いを寄せていることがわかるからこそ、れいらはパパ活をするのだろうし、一度も登場しない「彼氏」を取っ替え引っ替えつくるのだろう。

れいらは容姿が華やかで、行動が大胆で、大人の世界に足をつっこんでいるかのような捉えどころのない魅力を醸し出す。高校生なりの清潔感を保ったまま、少し背伸びした言動をし、男の子たちを心配させ、「そばにいてあげなければ」と思わせ、彼らの心を惹きつける。

れいらが凛に敵わないと思うのは、凛の魅力が引き算の魅力だからなのだろう。凛は地味で自分に自信のない普通の女の子(見上愛ちゃんは本当は超絶かわいいのだけれど、それは「私たち」の美的感覚であり、吉田羊さんが超絶美しいこととリンクしているのだろう)。けれども誠也にとって、凛は「そのままでいる」からこそ魅力的で、誠也はそのままの、今目の前の凛をずっと見てきたし、凛が凛であるからこそ、好きなのだろう。

だからこそ、れいらは凛に敵わない。キスをしてみても、彼氏にも許さなかったという初体験を捧げてみても、誠也は彼女に心を寄せることはない。「自分ではだめなんだ」と痛いほど理解したれいらは、その最中に、横を向いて「ウケる、必死じゃん」と笑う。

だからこそ、翌日ちょっと彼女のことを意識してしまう誠也を、れいらは爽やかにあしらうのだろう。「あんなことなんでもない」というように。傷ついていることを悟られたくはない。れいらは誠也の前で、いつもの「れいら」らしく、堂々と胸を張って生きている自分を演出する。

れいらはきっと凛のことも好きなのだ。2人はお互いにコンプレックスを抱きあっているし、同じひとが好きなこともお互いなんとなくわかっているけれど。れいらと凛の関係を見ていると、ちょっとエリック・ロメールの映画みたいだなと思う。

誠也は凛には勇気がなくて触れられない。ふとしたことで壊れてしまいそうな、純粋できれいなままの凛に、自分の抱く好奇心や「汚い(ように感じる)」欲求を伝えて傷つけたり嫌われたりはしたくないのだろう。

そんな誠也の勇気のなさが、女の子たちを振り回し、傷つける最大の原因となっているのだけれど。そして、好きだけど触れられない初々しい高校生2人と、妻に触れられない宏之、夫から触れてもらえない恵理という、40代夫婦の物語がどろっと重なり合う。

そんなに自分に触れたくないの?と夫に問いかける若返った恵理は、夫の部下からは色目を向けられ、夫のことも実際には欲情させていたのだ。

年齢は倍以上だけれど、なんだこれ。
そう思って比較すると、なんだかぞくっとする。

自信のない誠也が、自信のない凛を愛すること。この歪みが最後、物語を超えて、彼らにとって「どっち」に転ぶのか。そんなこともふと、考えている。

長くなった。今日はおしまい。

つづく


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