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气とメと手と寺とち

疲れたねえ。
お疲れ様です。

ひとっつも歌ってません。
歌ってませんが、短歌ってストレス解消や 欲求不満の解消になることもあるだろうなと想像しています。
短歌は言葉をつかうから、まるでおかしな言い回しになるようだけれど、言葉にならないことや言葉であらわせない事象や風景を、比較的誰でも、すぐ表せるように思う。
魔法をおぼえたように。
誰かと何かを話して
それを忘れて ゆきます。
誰かとした話 誰としたのか
すぐにもう 思い出せない。
刺す音
こんや雑誌のコーナーでたたずむ。
さきほどさがすと決めた雑誌のタイトルは憶えていても
それが今ここに、あろうが、なかろうが、
関係なくなっている。
その雑誌が本当に欲しかったのか、欲しいってどういう気持ちのことだったか、因数分解された気持ちでいつまでも本屋で何かを探すふりをした。
望まないのに視界のピントが合わなくなり、されるままぼんやりすることと似て、しばしば気持ちが因数分解される。
気持ちが 気と持とちになって、さらに气とメと手と寺とちになって、気持ちは気づいたらどこかへ消えている。
何かを感情を持って思うことをしていたはずだが、ばらけてうしなう。
たとえば、こうしたおのおのの気持ちと思っていたものが、短歌を読んでいると他人と共有できるものなのかもと、あたらしい。
似た感覚を歌にしている人を見て。
ええ今夜は雑誌のコーナーで、欲しい感情を忘れた。
で、何軒かハシゴして、さきほどあの雑誌が欲しいと思ったその雑誌が目の前の売り場にあろうが、なかろうが、迷うそぶりをして、探しているふりをして、何も買わずに帰った。
人間でないものが感情の演技をして、わたしは人だと人目を凌いだ気分だった、少し。
孤独な宇宙人の気分だ、とかね。

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