noteで書評、はじめちゃおっかな

生きるという事は、たいへんな事だ。あちこちから鎖がからまっていて、少しでも動くと、血が噴き出す。太宰治『桜桃』、青空文庫

しょっぱなからこの一文で、「おいおい、お前メンヘラかよ」と思われた人も少なくないだろうし、事実、私は人並みにメンヘラなのだけど、言いたいのはそんなことではなく、19歳頃の私はこの一文をそらで言えるほど読み込んでいる、おセンチで可愛い処女だったってこと。

物心ついた時から物語を読むことが好きで、だから気づいたら小説を読んでいて、思春期の私は軽微な「ブンガク少女」だった。私がとりわけブンガクと親しかったのは18〜20歳頃だったように思う。その頃は、いつか訪れる絶対的な「死」に毎晩首根っこをつかまれながら、太宰とか、三島の「豊饒の海」とか、稲垣足穂とか、澁澤龍彦とかそういうのを夢中で読んでいた。

ブンガク少女にとって身の回りの出来事は全て彼女の悲劇を演出するためのもので、彼女は誰も愛していないのに誰かから愛されたくって、恋でもなく執着でもなく判別不明の感情で、一人の男の子に告白しまくって振られまくったりしていた。

けれど、21歳の頃、私の自意識とか、執着とか、めんどくささとかそういうのにとことん付き合ってくれる人が現れて、私はあんまり悩まなくて良くなった。そうすると、自分の内面を抉り出す類の自傷的読書をする必要がなくなって、私の指は、文庫本からめっきり遠ざかった。

それから恋人と別れたり付き合ったりしたけれど、愛情の適切な距離を心得た私は、さして恋愛に失敗することなく、人生における愛情の最大瞬間風速を無事観測し、今の夫と結婚して娘を妊娠して出産した。

現在の私はというと、最もよく読む文章は2ちゃんねるの既婚者女性板まとめサイトに載っている、何処かの誰かのリアルな悩み(或いは虚構)の羅列で、日々スマホそれを読みながら頷いたり、首を傾げたりして、時折本に手を伸ばすという体たらく。菅田将暉に狂うその姿に曲がりなりにも「ブンガク少女」だった面影はどこにもない。

けれど、ひょんなことから(死語か?)ウェブ媒体で文章を書く仕事をするようになり、そこで同じくライターとして活動する方の勧めで書評を書くことになった。

書評の対象作品は、芥川賞作家の藤野可織さんによる短編集『ドレス』。「読む」ことはこれまでも幾度となくしてきたけれど、「読む」ことを「書く」ことはしたことがなくて、腰は重かった。

けれど、いざ書き始めるとこれがすごく楽しくて驚いた。紆余曲折しながらも完成した原稿は思いがけず、悪くなかった。

その書評が公開されると、比較的好意的な意見をたくさんいただくことができ、何より、著者である藤野さんご自身からも暖かい言葉をかけていただいて、私はつい、こう思ってしまった。
「こ、これは、書評、ある、あるで」。

だから、もうちょっと書評を書いてみようかな、なんて考えついた。


––ここまでに書かれた私が我ながらあまりにも愚かなので、少し弁解させてもらうと、この書評は、確かに悪くなかったかもしれないけれど、あまりに褒められることしかなかったので、私の頭にある疑念がよぎったのだ。

「批判するほど、響かなかったのかな?」
この不安は、認められた喜びを伴い、間違いなく、私の原動力の一助となった。

だからと言って無闇矢鱈に批判してくれと言っているわけではない。冒頭で述べた通り私もメンヘラの端くれとして、理不尽な批判には最高のメンタルヘルスで対応させていただく所存だ。

兎に角、ここまで1500字に渡りたらたらと自分語りと自己弁護を繰り返し、何が言いたいかというと、noteで書評、はじめちゃおっかな。ということだ。

気軽に書評なんて言うけれど、私の読書履歴は20歳程度で更新が止まっているため、きっと若い頃の読書の焼き直しも多いかと思う。けれど、だからこそ、少女の、そして19歳前後の私と25歳の今の私を行き交いながら、あの時の私とまた出会えたらいいな。そして何より、そこでいつか、どこかにいたあなたと重なり合えるなら。

P.S 今になって桜桃を読み返すと、太宰、最低だな。


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