金村修アーティストトーク 『死体のためのレッスン』

2012年11月9日に、新宿のフォトグラファーズギャラリーでおこなわれた金村修さんのトークショーの内容まとめです。私のメモ書きから再構成しているので、実際の金村さんの言い回しとは異なる部分もありますし、私自身の誤解も含みます。その辺、ふまえた上でお読み下さい(以前、togetterにてまとめていたものの再録です)。


自分の写真は三次元的な空間性が強いので、今までは焼き込むことで平面性を出してそれを消そうとしていたんだけれど、今年、中平卓馬さんの『サーキュレーション―日付、場所、行為』(http://www.amazon.co.jp/dp/4905254019/)  のプリントをやって、中平さんの場合ストレートにほぼ焼くだけで平面性が出たので、それならば自分も焼き込まずにやってみようと思いました。

90年代初頭まで写真家は美術館を公然と批判していた。生きている写真を死体置き場に飾るのかと。でもアルベルト・ジャコメッティの言葉に通じるんだけれど、写真は現実に似ているんだけれど現実を写しているんではない。そこに生命なんて無いわけなんですよ。写真は生きているなんて僕はそう思わなかったんですね。

肉体の場合、脳が中枢機能を防御するために画面にヒエラルキーを作って自分の神経にわかりやすいように構成していくんだけれど、カメラって機械だからそういう制約がない。だから人間の肉眼のメタファーにはなり得ない。逆に自分の身体のものである肉眼じゃないから、写真は非常に面白いなと。

小津安二郎の影響を意外に受けているんですよね。あんまり地面を見せないとかレンズを交換しないとか。小津ってローポジションが多くて、なんでそんなポジションにカメラを置いたのか考えていたんだけれど、自分の身体とか肉眼とかに映像を回収させたくなかったのかな。身体性を拒否しているんですよね。

本を読むと「小津のシンメトリーは美学」とか「様式美」って書いてあるんだけど、違う気がして、もっと機械的な構図のパターンで、機械としてのカメラを強調しているんじゃないか。肉体はダイアン・アーバスの双子写真みたいにシンメトリーっぽい物を受け入れないところがあるから。だから"非身体的"っていうか。

写真って記憶の補助かもしれないけれど、"記憶"とか"印象"って写真を見る時に邪魔なんだと思う。桑原甲子雄さんの昭和初期の写真も今見るから凄く面白く感じるんじゃないか。写真ってある程度時間がたつと見え方が違ってくるというのは正しいなと思って。

リアルタイムでベタ焼き見ても高揚しないんだけれど、時間が経つと面白くなるんですよね。写真じゃなくても時が経った物は皆面白くなってくるんじゃないかな。逆に広告写真って恥ずかしかったりするんですよ。なんて大げさな表情だろうとか。あのての写真は時代と密接に関わりすぎていて時代の記憶が無くなると見え方が違うんでしょう。記憶を必要とするというか。(現在開催されている)オペラシティでの篠山さんの作品展よりも、それを特集した『芸術新潮』(2012年10月号)の記事の方が面白い。言葉があるしアートディレクションも入っている。あの人が今まで美術館でやらなかったのはある意味正しい選択でしょう。

今回ビデオも作ったんです。ビデオって前方に流れる時間で、でも写真の時間は、壁に四段で貼ってパッと見ると上下左右の写真の関係が入って、違う時間を持っているというか、一度に空間として展開できる時間性ですよね。それがまったくビデオとは異なります。

カメラを使うメディアは冷酷になってしまう。映画監督の園子温さんも『自転車吐息』から知っているけれど、それまでは芝居みたいな演出の付け方をしていたのに『ヒミズ』からはカメラを意識するようになりましたよね。『希望の国』では演出を抑えてロングショットを多用している。それまでの「カメラを意識しない事」から「意識した事」による園子温さんの映像は、ちゃんとその差が主観を超えて映るんですよね。放射能があるとかないとかいう人間の思惑を越えて物は映るんだというのが面白かったです。

今回、写真の白枠の幅を7mmにしました。前回は1.5cmだったかな。白枠の多さが変わると見え方も変わるんです。展示も作品を3つに分類して展示しました。日本の写真は物語性重視であまり分類をやらない。これまで全ての写真を基本的に同じに見せようと思っていたんだけど、今回は分ける事で逆に共通性が見えて来るかなぁと。

バラバラに出されると面白くない物でもキーポイントを見つけて括ると写真は見え方が変わる。そういう見せ方は面倒で嫌いだったけれど、今回はとっかかりを出しても良いと思って。僕の写真は後ろの物をよく見せない構造を持っているので、会場に椅子を一杯並べて人が入った方が、(写真そのものが隠れて全体が見えなくなるので)写真としては良く見えます。

(展示した写真の)白枠が1.5cmだ7mmだっていうのは些細なことだけど、カメラを使うって事はフレーミングがある事を肯定しているのだから、そこはやっぱり気になりますね。カメラって何でも写してしまうアナーキーな物、無秩序だから、イコール自分ではないんですよ。"私の道具"ではなくカメラなんだってね。フレーミングとか"人間の知覚"で決定した物が機械によって写される。肉眼を裏切るのが写真の面白さで、単純に自分の身体とか感情となると飽きますよね。撮っている時はなんとなくで、三年後に見ると素晴らしい(笑)。撮影している時に凄く一生懸命撮っているとか、気分が乗らないとかではないんですよね。

作者の立ち位置が見えなくなる写真って面白い。ベッヒャー系の人達がばかみたいに大きく延ばすのは、その事で撮る"私"が消えていく。撮っている時の知覚の限界を超えるから、彼らは面白かったんでしょうね。ルフをキャビネで見ても全然面白く無い。5mの大きさになるから突然、変に見えるっていうのかな。

アーヴィング・ペンなんて馬鹿にして古臭い写真だと思っていたんだけれど、改めて見てみるとペンと僕の写真って似ていてちょっとショックでした。ちゃんとしたモダニズムの理論に則っているから上手い。自分で言うのもなんですか僕は一枚一枚焼くと上手いんです(笑)。でも上手いなんてたいした事じゃない。

つまんない人って上手くなりたがる。年間千本も撮れば、どんなに下手でも上手くなるんです。それよりも如何に下手になるか。下手ってカメラに違和感を感じているわけで、身体化できていないっていうか。それが凄い重要な事だと思うんです。"下手"とか"キチガイ"って褒め言葉なんだよね。長くやっていると上手くなってしまう。上手くなるとかセンスなんかどうでもいいんですよ。センスがいい写真家なんて、大概ろくなもんじゃない。写真でセンスは敵と思った方がいい。個性溢れる写真ほどろくでもないものはないと思うんですけどね。

無声映画の頃が良いのは誰も個性が無いこと。全員が職人に徹してやっているから"私"とか"個性"じゃないんですよね。「センスが無い」「個性が無い」は褒め言葉ですよ。そういう写真がこれから肯定されていくといいと思います。

(了)