不自由な表現、痛む表現、不寛容なゼロカルチャー

名古屋にいます。学会報告でした。フィードバックがえげつなかったです。詳細はまた今度。で朝から何も喉を通らないで報告、電車でホテルチェックイン前に愛知なのに横浜家系ラーメンネギチャーシュー大盛り。店員さんの「ご飯サービスですけど」にハイヨロコンデの精神で食べたのが17:30。懇親会は19:00。飲めない酒を飲み、撃沈。起きたらホテルで全裸で寝てました。プリンが食べられた痕跡はあるも記憶はない。で、今日はあいちトリエンナーレ。

当たり前だけど 「表現の不自由展」はない。故に、というか余計に「表現の不自由」に関して引き立てられるようになってしまっているように感じた。

デザインは問題解決、アートは自己表現。デザインは快適な志向があるが、アートは痛みを伴うことがある。アーティストは表現者として自分を削る。だから反権力的な表現も伴うことがあるだろう。そこには表現するもの、鑑賞する人に「痛み」を伴うこともある。

個人的に写真を燃やすのはどうだろうね、と疑問はある。しかし、それを観て「けしからん」だけで済ましてもつまらない。反対する人の気持ちはわかるけれども、冷静に。

そんなこと会場のベンチで書いていたら話題の津田氏がひょっこり、目があった。ペコってしてくれたから、多分いい人なんだろう。

「あなたとは意見は交わることはないが、あなたがそう主張することを私は守る」とどこかの政治家が言ったらしいが、本当そう。嫌韓反日の話題が溢れる昨今だけど、どちらの国でも「それを言っちゃおしまいよ」という寅さんの名台詞のような、今まで遠慮していた言葉は溢れているのに親日新韓発言が「タブー」になっているのが気持ち悪い。

何が言いたいかというと。

表現の不自由を単なる政治的イシューに使用するな、と。表現の不自由に、本気で抗おうとする人の気持ちまで弄ぶようなことしないでくれ。表現することは、魂の自由のためだ。それを2019年の世情に合わせて騒ぐ人を軽蔑します。政治的に利用されることが一番俺の感情を刺激しているらしい。

今回の「表現の不自由展」の不自由な扱い。結果からすると反対した人は「試合に勝って、勝負に負けた」としか思えない。アートって高尚なものではなく、もっと身近な存在だと思う。「うおー、すっげ」とか「ヤバイ」とか「なんだこれは?」と言った声が聞こえてくる存在。

「俺はこれが好き」、「マジか、俺は好きじゃない。こっちが好き」「なるほど、これもいいね」な会話でいいはずなのに、ボランティアガイドの言葉に深刻な表情でうなづき、メモを取る鑑賞法が学校的でよしとされるのが日本。

「あんなのはアートではない」と息巻くよりも、まずは「こんなものでもアート」という楽しみ方も獲得しましょう。

個人的には最高に来てよかった。学会サボったけれども。飛行機の時間さえなければ全部回りたい。祭りはもう少しで終わる。



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