天国への階段 (Stairway to Heaven)

もしも世界が変えられるのなら (Change the World)

其の二

 妻、晶子の入院する精神病院の敷地を一歩踏み出た時、富樫晴太郎(とみがしせいたろう)は大きなため息をついた。通勤用の黒い革の鞄を右手に、妻の洗濯物を左手に持って、肩を丸めて重い足取りで歩き出す。スーツも黒い革靴も全く手入れをしておらず、まさに全身から「くたびれきった」という文字が発光しているようだ。晴太郎は背も高く、美男とは言えないまでも、学生時代から剣道で鍛えた体を持ち、実年齢よりもずっと若く見えた、つい最近までは。食事がほとんどのどを通らないせいか、痩せてしまい、ベルトを買い替えた。これまた西洋のお人形のように愛らしく美しかった晶子は、今は見る影も無い。晶子の病状はどんどん悪くなっている。四月に一人息子の圭吾を亡くしてから、ほぼ七ヶ月。春が終わり夏も過ぎ実りの秋もほとんど終わろうとしている。今年の冬は記録的な寒さになるそうだ。早朝のテレビのニュースで、可愛い女性が、ほぼ圭吾と同じ年頃の気象予報士が、満面の笑みを浮かべながら晴太郎に語りかけていた。

 晴太郎と晶子の一人息子である圭吾が、酒によったホームレスの男性を救おうとして地下鉄に跳ねられた。とっさに庇った圭吾は即死したが、ホームレスの男性はかすり傷一つなかった。そのホームレスの男性は、晴太郎や晶子と会うことを固辞し、病院で警察官の事情聴取を受けた直後に姿をくらませてしまった。お詫びやお礼の一言も無かった。晶子は「あんな人を助けるために圭吾が死ぬなんて」と悲鳴のように叫んだ後、一週間ほど寝込んで泣きの涙にくれた。そして涙も枯れ果てた時、晶子の瞳は焦点があっておらず、行動がどことなく、彼女らしく無くなっていた。あんなにきれい好きだったのに、掃除を全くやらなくなった。快活で隣近所の主婦たちとしょっちゅう井戸端会議をしていたのに、全く家を出なくなった。彼女や亡くなった圭吾の友人が訪ねてきてくれても、うつろな目をして問いかけにも全く反応しない。誰もいない方向を見て、ブツブツつぶやくようにもなった。最愛の一人息子を育て上げ、その入社式の日に亡くしてしまったのだから無理も亡かろうと、晴太郎はしばらく静観していた。しかし、ある日訪ねてきた晶子の妹夫婦ー二人は医者だったーが晶子を精神科のある病院へ連れて行くようにと晴太郎に言った。一時の心の苦しみだ、すぐに元に戻ると思い込もうとしていた晴太郎に、医師は「奥様は、統合失調症です」と残酷な事実を告げた。今ではもう、晴太郎の顔を見ても誰だか分からない様子だ。息子の圭吾に続いて妻、晶子も失い、晴太郎はたった一人、現の世界に取り残されてしまった。

 湯島駅へ向かいながら、晴太郎は泣きくずれてしまった。忙しげに、側を通る人々は一瞬気の毒そうな視線を投げかけ足早に通り過ぎていく。

「神様、どうして僕はこんな目に会わなければならないのでしょうか? 別に奢っている訳ではないですが、僕は医療の立ち後れた国の人達を救うために、身を粉にして働いてきました。おかげでたくさんの命を救うことができました。それなのに、どうして僕は大事な家族を全員失ってしまわなければならなかったのでしょうか?」

 その時、今まで晴太郎を包んでいた街の喧噪が遮断されとても静かになった。晴太郎は、自分の心も壊れてしまったのかと思った。やがて低くて大変良く響く声が聞こえてきた。

「イエズスは、現世利益の神では無い。この世で行った善行は、天国に徳を積むだけである。それに今一度考えてみよ。お前は本当に、何も悪事を働かなかったのか?」

 その声は晴太郎の心に残響を残した。すぐに街の喧噪は戻ってきたが、晴太郎はその不思議な声が、空耳だったとは思えない。しかし街行く人々は何の反応も示していない。ということは、あの声は自分に向けてだけ誰かが放ったのか? いやそんな馬鹿な。それこそ「神に誓って」悪事なんぞ働いた覚えは無い。狐につままれたとでもいうのだろうか、この状態はと首を捻った。やっぱり自分は疲れているのだ。だから幻聴が聞こえてしまう。この時、晴太郎には、言葉の意味を吟味してみる余裕も、気持ちも無かった。

< to be continued >


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Ran

天国への階段 Stairway to Heaven

天国へ行ける人、地獄へ落ちる人、天国へすぐには行けないけれどある仕事をすれば天国へ行ける天使と呼ばれる人たち……。その違いは何なのか。心温まるヒューマンストーリーです。
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