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努力はゴミ箱に

精一杯生きた でもこれは罪か?
なら僕をぐっと楽にして欲しかったよ
グッドラッカー/美波

努力は必ず報われる、とずっと信じてきた私だが世界に打ちのめされて最近考えを変えた。

大谷翔平のようなスーパースターが出現すると世間は彼がいかに超人的な努力を積み重ねてきたかを語る。成功したのは彼らの努力の結果だという素朴な考えが根底にあるが、そうだとしたら失敗は全て自己責任、努力不足が原因なのだろうか。

例えば大谷が100年前の日本に生まれていたら野球選手として成功していただろうか。現代でも英国に生まれていたら?もしくは大谷の哲学を完全に吸収した一般人が大谷と全くトレーニングを継続したらメジャーリーグ史上最高の選手になれますか?

「実力も運の内」でマイケル・サンデルは「個人の社会的成功は努力よりも運の要素が大きい」とした。落伍者は怠惰で努力を惜しんだ結果で、反対に成功者は地道に努力を重ねてきた結果であるから、失敗も成功も個人の努力の結果だとする自己責任論を複数のエビデンスを元に否定した。

成功に占める本人の努力の割合は微々たるものでほとんどは才能(遺伝)・運によって決まるというのが彼の結論で、例えばハーバード大学卒業者の両親はほとんどは裕福な社会的成功者だし、ピケティが最近証明してしまったように労働で生み出す収益は投資で生み出す収益に満たない(労働者は永遠に資本家より豊かになれない)。

成果が出ないと社会は多くの場合本人の努力不足を責めるが、努力で変えられる未来はたかが知れている。魚が必死に足掻いても亀にすらかけっこで勝利出来ないのと同じで、重要なのは適正だ。

また、大谷のように幼少期に天職と邂逅するケースは針に糸を通す確率で、ほぼ全ての人間は家柄、無知そして偶然によって誤った職に就き苦しむ。

みにくいアヒルの子が見た目が大きく違うことで仲間からひどくいじめられ、最終的にさあ私を殺してと白鳥たちに近づいたところで自身が美しい白鳥だと気づいように、必要なのは耐え忍んで努力することではなく居場所を変えることなんだと思う。

置かれた場所で咲きなさい、という本が昔ベストセラーになったが自分はそうは思わない。みにくいアヒルの子が仮に置かれた場所で精一杯生きたとしたら、存在が罪だと罵られ馬鹿にされ、息絶えるまで自らの美しい姿に気づくことは無かっただろうから。

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