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徐々に染み込んでいく旅の匂いに酔いしれながら【タイ・バンコク】

タクシーの中から、オレンジ色に染まっていく街を見あげる。途端、心の奥から名前も知らない、何かがこみ上げてきた。

この気持ちはなんだろうと考えていると、好きな人を前にしたときの、ドキドキとも、不安とも違う、なんだかぽってりとした塊が、心にのしかかってくるような。あの感覚と似ていることに気づく。

場所に対して、こんな感情を抱くことがあるなんて。
何度目かのバンコクは、懐かしさとともに、はじめての感覚を運んできてくれた。

飛行機を降りたわたしを、それはそれは長い列が待ち受けていた。遅れた飛行機に、いくつもの便がぶつかったためだろう。
ぐねぐねと伸びる列は、まるで某アトラクションパークのをようになっていて、
何重にも折り重なった人の折り目が、はるか先まで続いている。

着ていた長袖のヒートテックを限界までたくし上げると、うっすら、腕に汗をかいていた。

興奮と苛立ちがまじった、さまざまな国の言葉が頭の上を飛び交っていく。

30分ほど待っても、パスポートチェックにたどり着くことができない。

よそ見したすきに、ピンク色の派手なシャツを着た初老の男性が、前に器用に割り込んできたのを、少しピリついた気持ちで見て見ぬ振りをした。

『1秒でも早くあの街の地面を踏みたい』。そんな想いが、徐々に体を照りつかせていく。
バンコクに入国できるまで、あと数名というところで、
後ろから「のちさん」と声をかけられ振り向くと、見慣れた顔の友人が、ひらひらとこちらに向かって手を降っていた。

「フライトがこんなに遅れるなんてびっくりしたなー。乾杯の時間、間に合うかな」
少し焦った様子で、ちらりと腕時計に目をやる彼に、わたしもうなづく。

今回わたしがバンコクを訪れたのは、彼の会社が主催するイベントに参加するためだった。
わたしは1度ゲストハウスに荷物をおろす予定があったけれど、向かう方向は一緒だ。
乗り合わせて、プロンポン駅近くまで向かうことにした。

「夕方のバンコクはとにかく道が混むから。多分渋滞してるんだと思う」
わたしが頭の中で考えていたことを、同時に彼がつぶやく。
案の定、呼んだタクシーは、なかなかわたしたちの前に現れてくれなかった。

「明日の朝、もうネパールに飛んでしまうから、滞在は10時間くらいなんだ」

何日バンコクに滞在するのか尋ねられ、素早く答える。

そうなのだ。わたしのバンコクタイムは、たったの数時間で終わってしまう。
イベントに参加したあとはそのまま、すぐにまた空港へ、向かわなくてはならない。

20分ほど経った頃だろうか。
わたしたちの元に、明らかに運転に不慣れな1台のタクシーが、ふらふらと近づいてきた。

どうやら地図が読めないらしい運転手の、もしかしたらこれはデビュー戦ではないか?
とハラハラしてしまう約40分ほどのドライブを経て、やっと街へと到着した。
ホッとひと息つき、彼に一度、さよならをした。

iPhoneの地図をちらりと確認し、すぐに歩き出す。
スクンビット駅の地下鉄を左に曲がってまっすぐ。この道は、何度も何度も、歩き続けた道だ。

タクシーの中は涼しかったのに、歩き出すと途端に足先と首筋から、じわじわと汗が流れてくる。
陽はもう沈んでいるのに、湿気を帯びたなまぬるい風は、そんなのおかまいなしにわたしに絡みついてくる。

長い信号を待っていると、目の前の交差点を、バスがドア全開で走り去っていく。
後ろを振り向くと、決して上手とはいえないバイオリンを、若者が、得意げに奏でていた。

タクシーは道を覚えていること。
路上演奏者は上手であること。
バスは、ドアを閉めて運転すること。

勝手にわたしが日常を通じて作った常識たちは、世界基準では途端、意味をなさなくなる。
目をつぶると、見えない何かが優しく溶けていくような気がした。

ふと、足元に目線を落とす。
汚れた赤と白のニューバランスと目があって、「本当は今すぐ脱ぎ捨ててしまいたいんでしょ?」と話しかけてきた。

そう。わたしはすぐにでもこの靴を脱ぎ捨ててしまいたかった。

それは尋常ではない暑さからではなく、多分、これは「冬を我慢していたわたし」が、向こうから仕方なく連れてきてしまった、相棒だったからなのかもしれない。
サンダルをつっかけて、ぺらぺらのワンピースを羽織って、この重い荷物をおろして。
今すぐ走り出したい衝動にかられた。

バックパックを道におろし、着ていた服をぎゅっと奥まで詰め込む。
靴下を脱いで、靴だけになってみる。
道行くひとたちは、横を歩いていく。そんなわたしを気にも止めずに。

こうやって旅は、些細なキッカケや崩壊を繰り返しながら
「向こう側」のわたしと「こっち側」のわたしを、徐々に遠ざけていくのだ。

きっともっと、日が経つに連れて、旅の匂いが全身に染み付いて、とれなくなっていく。

日本にいたら、「あのひと、一体どうしたの?」
だなんて言われてしまうほどに、もっともっと、濃く、旅の匂いは染み込んでいくのだろう。

そんな乱暴な感情に酔いしれながら、なんとか裸足で歩きたい気持ちを抑えて。
わたしは、裸足にはいたスニーカーで、少し早足で歩き出した。

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