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人生最後の日が突然きたら、ここに来ようと思う【沖縄・波照間島】

そんなメモを、もうあと数分後には沈んでしまいそうな夕陽に向かい、ギアもタイヤも潮風に当たりすぎて「まだ使います?どうなっても知りませんからね?」と声が聞こえてきそうなくらいにボロボロの自転車を漕ぎながら、iPhoneのメモに素早く打ち込んだ。

夕陽がまるで、とろとろに熱したチーズのように、空のピンクと、水色、その間の中間色に溶け込んでいく。
太陽の色が全体に伝染していくその様子は、まるで、もう止めようがないほどに広がってしまった山火事のようだった。

まっさらに晴れ渡ったはずの空が急に泣き出すものだから、昼すぎに私たちの頭に降ってきたそれは、地面のデコボコした部分にすっぽり溜まりこみ、自転車のタイヤに噛み付いてくる。慎重に、でも容赦なくその上を滑りながら、わたしは遠く遠くにゆったりと滑りおちていく夕陽を見つめていた。

どうして、一体いつ、一体わたしはいつ忘れてしまったのだろう。
時間はのっぺりと平たく引き伸ばされ、今日の終わりを教えてくれるのは、視線を落とせば正確に時を刻む腕時計か「俺がいなきゃ、もうダメだろう?」とドヤ顔で当たり前のように隣に鎮座するiPhoneのホーム画面だった。

ああ、今日も1日が終わる。

そんな当たり前の事実を、この風に揺れるサトウキビと、真っ赤に燃え盛る夕陽と、水平線が丁寧に、わたしに教えてくれる。

那覇本島から飛行機で約1時間。そこから更に、波の状況で出るか出ないか直前まで分からずに「へえ。今日船出たんだ!ラッキーだなあ」なんて言われてしまう、小型の船(もしくは大型のフェリー。この子は波に強いのだけど、みんなヘロヘロになるくらいに酔ってしまう特典付き)に揺られて更に1時間。

「果てのうるま」と呼ばれるこの日本最南端にある有人島「波照間島」には、約500人ほどの島民と、ヤギ達が暮らしている。地図で見るともはや「ここは日本なのか?」と疑問が生まれてしまうほどに台湾の隣にちょこんとある、小さな島だ。

きっと、”沖縄と言えば”でイメージする沖縄の、100点満点をいただけるのではないか、と思うような景色がここにはそこら中に広がっていて、赤瓦のお家や、石垣、主な特産品は(唯一と言ったら怒られるだろうか)純黒糖で、サトウキビ畑が島全体に広がっている。

わたしがこの島にきたのは今から7年前の、初めてのひとり旅。目の前の現実から逃げ出したくてたどり着いたのが、なぜかこの島だった。

船を降りて、「ニシ浜」と呼ばれるビーチ(と言っても、この島には泳げるビーチはここだけなのだけれど)初めてこの島の海を見たとき、涙が止まらなかった。何故泣いているのか分からなかったけれど「人間どうやら綺麗な景色を見ると涙が出るらしい」という話を聞いて「ふうん」と受け流していたあの何年前かの自分に、ほらね、こういう事だよ。と、熱弁したくなった。

海も空も青いのだけど。部分によっても、雲の影によっても、色がまるで違う。「じゃあ、青の定義はなんなのか」と考え始めた頃には、そんな事どうでもよくなり、真っ白な浜へ駆け出してしまうのだ。


呼吸をする事なんて普段意識していないわけなのだけど、何故か「呼吸を忘れてしまう」。余りに心臓がドンドンと胸を叩くものだから、チクチクと痛んでくる。

美しい。という言葉を、この光景を表現するために作ってくれた人にも丸ごと感謝してしまいたくなるくらいに、もう。美しい。

この、言葉で表現しつくせない色の美しさを、わたしたちは「波照間ブルー」と呼んだ。

あれから7年経って。再び波照間ブルーを目の前にして「ああ。こんな光景だったなあ」としみじみ、本でも片手に風に当たってすかすつもりだったのに、私はまんまと同じ場所で泣き出してしまった。まんまとこの青にやられたのだ。

緩やかに曲線を描いて伸びていくこの坂を、子供も大人も、お父さんもお母さんも、女子高生も、きっと国の偉い人たちも。ブレーキなんて一度もかけずにみんな自転車で駆け下りていく。

一刻もはやくあのブルーに手を伸ばしたくて。1分1秒だって、きっとぐずぐずしている時間が惜しいのだ。

あの7年前に私を泣かせた青と目があった瞬間、私も全力でペダルを踏んで、ぐんぐん加速していく。涙が、頰を伝って風に飛んでいくので、きっと後ろからきたあの人は、突然のスコールだと思ったかもしれない。ごめんなさい。

「次に生まれ変わったときは、どうしてもこの波照間ブルーの一部になりたい」
と半ば本気で言ったら
「おめえ、横着するな。来世のこと考えてないで、今世を全力で生きろ」
と、海岸で仲良くなり一緒にヤドカリを探していたおじさんがしかめっ面をした。

「3週間も滞在するの。みんなすぐ帰るよ」
沖縄訛りの優しい言葉で、ソーキそばを出してくれた「しゃま」(波照間では先輩を敬まってこう呼ぶ)が何日経ってもなかなか帰らない私にびっくりしてみせた。
「何もねえよ。この島は。なんもねえ。」
と言うくせに、顔はニヤニヤと笑っている。知っているのだこの人は。この島が、沢山の宝物を抱えていることを。


3週間過ごした島の生活は、あっという間に。でも、丁寧に、丁寧に。足りない部分のピースに染み込んで、埋めるように、過ぎていった。


毎日、お日様が下がり出すと海へ自転車を全速力で漕いだ。途中、いつも電動自転車に抜かれていた。


出会ったときはちびっこくて、「もうダメかもしれないねえ」なんて言われてたチビは「チビっ」と呼ぶと、いっちょ前にこちらに寄ってくるようになって、癒しと、私にお友達をたくさん連れてきてくれた。


「ここにはね、のんびりしにきてるんですよ。だから何もしないの」なんて、せっかく大阪からきたはずなのに、ずっと宿の片隅にいた常連さんと昼間から波照間のお酒「泡波」を開けてベロベロになるまで語り合った。


どうしても朝露に濡れた秋に会いたくて、サトウキビ畑までカメラを持って、キラキラを求めて眠い目をこすって早起きした。


「送りましたよ」から1週間以上経ってはるか遠くから届いた友人の手紙は、何だかずっと凝り固まっていた心の紐をゆるり解いてくれた。(送り返した手紙は、ちゃんと届いただろうか)


ニシ浜に向かう途中にある喫茶店に置いてあった自由帳には、7年前私が書いたイラストと「また絶対くる」と書き記した言葉が残っていて、そこに「またきたよ」と、返事を出した。


ぼーっと雲を見上げながら「あの雲は、なんか美味しそうだよね」と子供達と夢中で言い合う日もあった。気づくと何時間も過ぎていて、日焼け止めを塗っていなかった肌はこんがりと焼けた。


夜は満点の星を見た。流星を数えながら「今日は何個見た」「天の川が見えた」なんて、宿のひとと星自慢しあったりもした。


大きな声をあげて鳴くヤギは、近づくとすぐ逃げ出してしまって「食べられることを知っているのかもしれないね」と、島のしゃまが教えてくれた。


毎日、飽きることなく海へいった。表情をコロコロと変える海を、いつまでも、いつまでも、見つめていた。

やもりの多さにびっくりして。
商店のおばちゃんとちょっぴりだけ仲良くなって、おまけしてもらって。
港で船を見送って。
虫除けの代わりに月桃の草を塗るようになって。
池に住んでいるテナガエビを観察するようになって。
島の運動会に参加して。

そんな風に、毎日が、過ぎていった。


私が島を去る最後の日。
いつものように夕陽の方向へ自転車をかっ飛ばしてみたけれど、最後はもくもくと雲が邪魔をしていて、結局、沈む瞬間は見えなかった。

あーあ、途中まで最高の夕陽だったのに。
ガッカリしながら、自転車を止める。


人生最後の日が突然きたら、ここに来ようと思う。

iPhoneを取り出し、先ほど打ち込んだメモと向かい合う。言葉は生ものだから、こうして思いついた事はすぐに書き留めておかないと、忘れてしまう。だからって、自転車を漕ぎながら打ち込まなくても良かったのかもしれないけれど、頭の中をこの言葉が支配してどこかに吐き出さなければ、と思ってのだ。

夏が過ぎ去り秋も深くなった、冷たい空気が頰を撫でる。
私はもう一度、深く息を吸い込み、目を閉じた。


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これは オンラインコミュニティ .colonyのハッシュタグ企画『 #今日が人生最後の日ならば 』に参加したものです。が、実話です。

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