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勝手に救われているので何卒、お構いなく

「心の扉を開くわけでも閉じるわけでもなく、そっと手を添えてくれる人」みたいな存在が、わたしの人生には勝手に何人か居て。
今日は、8ヶ月ぶりくらいにそのうちの一人とご飯を食べてきた。

出会った、というより私が彼を一方的に認識したのは24歳の頃。その日何気なくつけていたテレビの向こう側で、びっくりするくらい後ろ向きな歌詞を、それはそれは透明感のある綺麗な声で奏でていたのが彼だった。

決してポジティブではないその歌詞は、当時泣きそうになっていた自分の境遇と影のようにぴたりと重なりあい、すぐさま買った音源を、気づけば繰り返し繰り返し「また再生するの?」と機械にもそろそろ呆れられてしまうのでは、と心配になるぐらい何度も聴いていた。

そんな彼との関係性がひょんな事から「一方的に知っている」から「お友達」に変わって、どちらからともなく「ねえご飯食べにいこう」(主に私)とお互いに好きなカレーを、一緒に食べに行くようになったのはここ2年くらいの話。

いつも、身のあるような無いような話をお互い淡々と何時間も積み重ねて、朗らかに笑い、ばいばいと手を振る。

そこには愛とか理屈とか損得とか。そういう類のやり取りはないように思う。あるのは何だか同族に生まれる特有の安心感みたいなものと、波のない海のような静かな時間だけ。

だけれどそんな関係性が、私にとってなかなか手に入らない、果てしなく、大事なもののように感じている。

「僕は、誰かを救う為に音楽をやっている訳ではないんです」。
彼のブログやインタビューで過去何度も見かけるこの台詞を、今日も彼は少しだけポツリと口にしていた。

その度私は心の中でひっそりと
「こちらは勝手に救われて居るので、何卒お構いなく」
と言い返している。

「そう。私は。というか、私達は。
救われたいだなんて思ってなくって。
救ってほしい、とも思っていなくって。
加えて手を差し出してほしいとも思っていないし、
もちろん支えて欲しいとも思っていない。
そこで、ただただ好きな歌を、好きなように、好きなだけ、伸び伸びと歌ってくれたらいい。
私達はそんな歌で、勝手に救われて居るので。
本当に、何卒お構いなく」。

「この料理たち、名前見ただけじゃ何だか分からないですよね」
本当に現地にいる気分になる、と、割とボロボロのネパール料理屋さんで笑いながら一緒に食べたご飯が、明日、あなたが伸び伸びと音楽を奏でる力になったらいい。

そんな事を勝手に願いながら、手を振った帰り道。ポケットからイヤホンを取り出し、あの日私を確かに救ってくれた音楽を、体の中に流し込む。

冬が近づいてきた空の下。先程別れたはずの彼の透明な声が、再び響いてきた。

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