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真夜中のさんぽ

(今週の共通テーマ:真夜中の散歩)

またどこからか、何度目かわからぬ夜がやってきた。

右、左、右、左、右。
自分の足が地面をとらえていることに、それを頭がきちんと自覚できていることに、とたん、嬉しくなる。
静かなまち。誰もいない道。ドクン、ドクン、と一定のリズムを刻む自分の心臓の音だけに、耳がかたむいていく。

どうやら今日もちゃんと「わたし」が帰ってきた。
おかえりなさい。
ただいま。

ああ。また朝がやってきた。やってきてしまった。
ちらりと時計に目をやると、先ほどまで8時をさしていた時計が、ちょうど10時を告げる。それを見届けて、布団の中でぎゅっと丸くなる。
目なんか、とっくの昔に覚めていた。

大丈夫。と、わたしは自分にはなしかける。大丈夫。昨日はちゃんと、自分の夜をすごした。リセットボタンは、きちんと押せている。

えいっと思いきって布団から出るころには、起きあがる決意をしてからもう30分も経過していた。ドアを開けて、外の空気にふれた瞬間、体がぞわり、とこわばる。
大丈夫。
大丈夫。
だって今日のわたしとわたしの距離は、限りなく0に近いから。

朝ごはんを食べて、いつもの鞄を背負いなおすと、まちへと出かけていく。
右、左、右、左、右…
イヤホンを耳にねじこんで、足を前に出すことだけに集中しようとするわたしに、エネルギーを最大限にためた朝は、今日も容赦なく大声ではなしかけてくる。

せわしなく、行き交う人々の足音。
車が走り去る音。
だれかのイヤホンから漏れる、名前も知らないアーティストの歌。
ガチャガチャと音をたてる電車。
今日の予定が流れるスマホ画面。
どこのだれかが殺されたことを報道する、ニュースキャスターの声。

「明日のこの時間までには…」「昨夜未明、N県で…」「今月末に納品を…」
未来、過去、未来、過去、未来。
前へ、後ろへ向かうエネルギーたちが、わたしの頭の中をさわがしく侵食していく。
こちらの意思などおかまいもなく「今日」は両腕を引っ張って「今」からわたしを連れ去ろうとする。

ドロドロと黒いかたまりと、こんがらがった針金。
そんな決してポジティブではないイメージに飲み込まれそうになって、ぎゅっと目をつぶった。
わたしとわたしの距離が、まただんだんと、じりじり離れていくのを感じながら。

カチリ、と意図的にだれかがスイッチを切ったような、静けさがあたりを包み込む。
午前2時。わたしのちいさな足音だけが、サクサクと、そんな静けさをやぶっていく。
ねむった街を決して起こさないように、慎重に。そっと、息をひそめる。

ぐっすり眠った街はまるで、わたしだけを拾い忘れてどこか出かけてしまったみたいで、悲しいような、ほっとするような、不思議な気分にさせてくれる。

今日はずいぶん遠くにいってしまったけれど、ちゃんと戻ってこれるだろうか。
そんなことを思いながら、手のひらをぎゅっと握り、ゆるく開いてみる。
爪が手のひらに食いこむ感触に全神経を集中させる。

うん、とうなずくと、わたしはゆっくり歩き出した。
右、左、右、左、右。

交互に足を出すことだけに、集中する。

心臓の音。
地面をとらえる足の感覚。
鼻から口に抜けていく呼吸の温度。
まばたきの速度。
月が後を追いかけてくる空。
ちかちか瞬いている星。
ざわざわ風に揺れる葉がこすれる音。

頭の中に、あたたかい何かが広がっていく。
じわりじわり、昼間遠くへ行ってしまった自分が、自分自身の体の中に帰ってくる。
そんな感覚をくれるこの深夜徘徊を、わたしは
「リセットボタンを押す」
と、呼んでいた。

わたしが、わたしになる瞬間。いま、このときを、確かに生きている実感。
いつの間にかあんなに離れていたはずのわたしは、きちんと0距離に戻ってきていた。

朝がくればまたきっと、騒がしいまちは未来へ、過去へとわたしを引っ張って進んでいく。
だけれど、この静かな夜がある限り、わたしはいつでも、戻ってこれることも知っている。

午前3時。名残惜しい夜に別れを告げて、わたしはそっと、今日も眠りについた。

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