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傲慢と怠惰


SNS依存になってしまう時期がある。他人の目が、動向が、なんだか気になる。気付いたら眺めている。そこから何が分かる訳でもないが、気になる。
時々その事実に怖くなって、またSNSから離れたりするのだけど、そこから逃げるだけじゃあ良くないのかも。ちょっとじっと考えてみる。夜だから。


もともとちょっと依存気質なのかもしれない。
甘いもの、糖分にも依存しがちだし。頭痛薬に依存しかけたこともある。同じように人との繋がりに執着しているのかもしれない、と思った。
でもしっくりこない。人との繋がりは狭く深いのが今までの私で、SNSはあまりそれにそぐわない。


自己顕示欲が人一倍強いのかもしれない。
承認欲求とも言う。
小さい頃から褒められることがなによりも大好きだ。
先生に褒めてもらえることはなんでもやった。小学生の時は家事に凝った時期がある。
お母さんに褒めて欲しくて習いはじめたバレエは8年半続けた。筋肉量が極端に少なかった私は、皆が筋肉量が増えたことで安定してきた頃になってもまだ技術に安定感が無くて、大好きだったのに中学生の頃に逃げるようにやめてしまった。今考えると、誰にも褒められなくなったからだと思う。
高校生になってからはSNSに写真をあげるようになった。少しずつ、褒められるようになった。写真を始めた頃はどん底メンタルの時期で、人に興味が無かったが、赤の他人に褒められたことによっても、それは少しずつ変わっていった。SNSは私の承認欲求と密に関連しているような気がする。私はいつだって褒められたいのだ。
ただこれだけでは決定打にならないように思う。少し、弱い。私の写真は現に今、なかなか 「いいね」 が増えないし、フォロワーの伸びも止まった。褒められることは以前より確実に減っている。それでも私はSNSを眺める。

なぜか?

私は心のどこかで、私の写真が褒められない訳が無いと思っているからだ。そういうものを世間では「驕り」 と呼びます。だからいつまでも、褒められるのを待っていられる。他人の動向が、目が、フォロワーの数が、いいねの数が、気になる。SNSに対する格別の努力をした訳では無いのに (最近は使いようによってSNSも立派な仕事になる時代だしSNSで努力をすることも成功へのひとつの手立てだと考えます) 、フォロワーやいいね=自分の評価 が気になる。自分の評価、それが気になるということは、自分の評価が高いはずだと信じきっているからではないのか?


驕り。


醜い、これはとても醜い。傲慢だ。知っていた。
私はだいぶ前から心の奥の深いところではとても傲慢なのだ。心の奥のどこかで、私は人よりすこし特別でいたい、特別であるはずだ、と思っている。それでいて表向きは自信が無い、自己嫌悪や自己卑下を繰り返す。タチが悪くて吐きそうだ。
怖いのだ、多分。自分の本当の点数を知るのが怖いのだ。自己嫌悪も自己卑下も、保険である。保険をかけておいて、それでも尚、

私は傲慢な人間だ。

私が時々、自分の性格は悪いとかいう会話の潤滑油としてはあまりに趣味の悪い発言をするのも、恰好の悪い自慢をしてしまうのも、この傲慢さを知っていて、知っていて目を背けていたからだと思います。心の奥底に傲慢を大事に飼っていて、細やかに気を遣うのに、それとは向き合おうとしなかった。
傲慢であるうえに、非常に怠惰です。
そして尚且つ、自分で言うのも憚られるのですが、私は常識があって、ある程度の勉強も努力も出来、人に優しく振る舞い、見知らぬ人に愛想と少しの配慮をむけられる、表向きは真面目な女の子であることを自覚しています。そこがとてもネックで、私がこれまで周りから激しく咎められることも無く傲慢を飼い慣らしてこれた理由でもあるのです。

そしてこれからも、見て見ぬふりをして背を向けて、私は傲慢を飼っていくことも出来る訳です。それも、どんどん周到で細やかになっていく気遣いのもと、その傲慢をすっかり隠してしまえるようになるのでしょう。

さあこの傲慢と怠惰を、私はこれから如何にしていこうか。

2019,6,15 / 月嶋 真昼

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