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もしも

「もしも」という言葉が好きです。
ぼくは語感が綺麗な言葉が好きで、気に入った語感は覚えておく様にしています。
「もしもピアノが弾けたなら」という曲がありますが、曲そのものよりも何て綺麗な言葉なんだと小学生くらいの時に思いました。
「もしも」という言葉には、その人の願望が含まれているし、僅かな後悔も含まれているし、そうはなれない無力感も含まれています。
これは、辞書には記述されない個人的な想いです。
「もしもピアノが弾けたなら」という一文と出会って、ぼくの「もしも」が更新された結果の含みだからです。
言葉そのものが持つ意味よりも、どこでその言葉に出会ったかというのを覚えています。
正確には最初の「出会い」じゃなくて「再会」なんですが、とにかく「言葉と再会した感じ」を覚えたら、ぼくはその言葉の語感を更新する様にしています。

また「もしも」が好きな理由はアイデアを発想するときの基本的な考え方だからです。
「もしもタイムマシンがあったら」「もしも渋谷が首都だったら」「もしも男女が入れ替わったら」みたいに
「もしも」はアイデアを仕事にする人であれば、日に何度も頭の中に浮かぶ使い勝手の良い言葉です。

ぼくは広告代理店出身で、いま漫画を描いていますが、ぼくが社会人になって数年は、広告は表現の1つだと思っていました。
ぼくは小さい頃に漫画家になりたくて(あの頃から画力を気にして漫画原作でも良いとか言い出してた)中学高校あたりは映画監督になりたかったんですが、
広告はその延長線上にあって、どうせ表現を仕事にするなら地に足がつく大企業でやらせてもらいたいと思う様になりました。
よし、有名になるまでは代理店で腕を磨こう。幸い、素晴らしい映画監督にも広告出身の人が多いので(正確にはCM系のクリエイターばかりで代理店のアートディレクターは違ったんだけど、気づいてなかった)いつか有名になって映画を撮ろう!とか妄想していました。
広告代理店をパトロンの様なものだと思ったんです。クライアントから料金をもらって、会社から給料をもらって活動するアーティストが広告クリエイターだと信じていました。
実際はそんな上手くはいかないしピュアなだけではやっていられない現実はありますが、それでも部分的にパトロンとアーティストという側面も少しはあったかと思います。

それが、ぼくが広告代理店に勤めていた後半は大きく変化しました。現役の代理店の人からすると「おお、懐かしい」とすら思うかもしれませんが、当時「ソーシャルグッド」という言葉が一気に蔓延しました。ソーシャルグッドは、世の中を実際によくする企画です。世界的なトレンドワードなので、そういう時代と言ってしまえばそれまでなんですが、少なくとも日本の広告業界に広まった大きな背景として震災があったかと思います。漫画「左ききのエレン」では、その辺は震災編として描こうと思っていますが、あの時に表現者としての広告クリエイターは立ち直れない傷を負ってしまったと思います。だから、世の中をよくする企画を考えようと、ソーシャルグッドだと、そういう流れが後押しされたのだと思っています。

過去のコラムでも書いてます。「震災の日、広告代理店にいた」

実際、ぼくは「ソーシャルグッド」という言葉に希望を感じていました。広告が世の中のためになるんじゃないかと。

ソーシャルグッドが具体的にどんな施策かは、例えばこんなものです。最近話題になっていた「プレミアムフライデー」はこの施策を下敷きにしていると思います。


ただ、それから「ソーシャルグッド」が単なる「広告スキームの1つ」として消費される事も増えてきて、なんとなく一時のトレンドワードになってしまった気がしています。でも世界的には15年のカンヌライオンを席巻したボルボのキャンペーンはカッコよかった。車の会社が交通事故を無くすために何ができるのか、という大義が込められています。



とにかく、2010年から現在に至るまで広告はとにもかくにも「マジで良いことをしよう、それが広告になるから」という発想に大きく変化してきました。

それ以前の広告がどんなものかと言えば、広告と縁がない人たちが想像するいわゆるCMやポスターです。ぼくは、そんないわゆる広告、CMの絵コンテを描くのが大好きで、その経験から漫画を描いています。つまり、漫画として描いていたのではなく、絵コンテの延長でした。それくらい昔からあるCMが好きです。

当時好きなCMはこれでした。

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