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史上最悪の人体実験を成功に導いた、黒人看護師の役割ータスキギー事件(2)

梅毒実験におけるユーニス・リバーズの役割

タスキギー時件は、アメリカの公衆衛生局が主導して行った、史上最悪の人体実験。アフリカ系アメリカ人の貧困層をターゲットに、梅毒であることを確認した上で、あえて”治療をしない”という治験を行い、死んでいく過程を記録するというものでした。

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なぜ、このような大嘘プロジェクトが成功してしまったのか? 

治験に協力したタスキギー病院の院長をはじめ、多数のアフリカ系アメリカ人が治験を行う側にいたこと、特に、地域の保健師的な役割で治験に携わった同じくアフリカ系アメリカ人、ユーニス・リバーズ(Eunice Rivers)の存在は大きいものでした。KKKによる、無差別的な暴力行為が行われていた時代ですから、アフリカ系アメリカ人(黒人)の中に、コケージャン(白人)に対するネガティブな感情は少なからずありました。そのような中、研究への信頼を高め、コケージョン医師とアフリカ系アメリカ人の被験者の間をうまく取りもったのがユーニスでした。

この研究が、倫理的に問題があると内部告発を受けた後、研究に関する調査が行われました。この研究に携わったアフリカ系アメリカ人は、実は研究の詳細までは知らされていなかったという説がある一方、アフリカ系アメリカ人の中にも医療従事者になれる上級市民と、それ以外の市民とがあり、上級市民による差別があった、もしくは、上級市民は自分たちのポジションを確保するために、”それ以外の市民”を利用したという説もあるようです。

アメリカの人種差別問題は、政治的に扱われることも少なくないことで、より複雑に感じることが多々あります。タスキギー梅毒実験を成功に導いた、アフリカ系アメリカ人の看護師、ユーニス・リバーズがどのような人物で、どのような想いでこの研究に携わったのか、知りたいなと思ったところ、彼女のインタビューが見つかりました。ユニースは晩年、ハーバード大学の行った“アフリカ系アメリカ人女性の口述による歴史プロジェクト”のインタビューを受けたのですが、そのインタビューから感じられた彼女の人物像や研究への想いをまとめてみました。

このインタビューは、タスキギー事件にまつわるものではなく、あくまでアフリカ系アメリカ人としてのユーニス・リバースの生涯について尋ねたものです。他好きギー事件についても触れられていますが、その前に、彼女の生い立ちを知っていた方が、梅毒研究に医療従事者サイドとして参加した彼女が理解できるかと思いましたので、インタビュー通り、彼女の生い立ちから紹介します。

生い立ちーーユーニス・リバーズを形成したもの

働き者で正義感の強い父親と、体の弱い母親の3番目の子として生まれたユーニス。上2人が乳児の頃、亡くなったため、長子として育った彼女には、下に2人の妹がいました。父親は農家でしたが、製材所も経営しており、他のアフリカ系アメリカ人の家庭に比べれば、少し豊かだったようです。母親は畑仕事を少し手伝うこともあったようですが、子どもの面倒を見ることがほとんどだったようです。

最初に通った学校は、教師1人が全学年を見るような小さな学校だったようです。学校に通い始めた年齢は覚えてないそうなのですが、5歳ではなく、もう少し大きくなってから入学したと記憶しているようです。はじめの転機は6年生の時。ユーニスの教育に熱心だった父親は、彼女に違う環境で育ってほしいと、ジョージア州にある教会の学校に転校させます。周囲の人々は「早すぎる」と、父親を批判したようですが、彼はユーニスたちの将来を案じ、しっかりとした教育を受けて欲しかったようです。父親自身は4年生までしか教育を受けていませんでした。

母親は下2人の妹よりも、長子であるユニシスに期待をかけ、彼女の教育に全てをかけているようだったそうです。夏休みに病気になってしまった時、母親は、ジョージアの学校まできて、ケアをしてくれたと言います。

「私はとても賢く、良い生徒でした。私は特別な存在であると思っていました」。

ユーニスはとても活発で、夏休みに実家に帰ると、教会の日曜学校では、リーダー的な役割を任されていたと言います。周囲に信頼される彼女の人格はこのような活動を通じて、育っていったのかもしれません。

実家では、父親はいつも彼女が学校で学んできたことをテストをしたと言います。ある日、どんなことを学んだかを確認する際に、「どんな先生に学んでいるか?」を尋ねてきました。そこで父親はユーニスを教える先生がコケージャンであることを気にし始めます。そして、父親は早速、彼女がタスキギー研究所に転入できるような手配をしました。タスキギー研究所は、現在のタスキギー大学の前身で、アフリカ系アメリカ人の教育のために奮闘したブッカー・T・ワシントンが初代校長を務めた、アフリカ系アメリカ人向けの教育機関(歴史的黒人大学=Historically black colleges and universities)でした。父親はユーニスには、アフリカ系アメリカ人の教師から学んで欲しかったのです。

あと1年で卒業、しかも、優秀な成績を残してきている学校を突然、去ることになったユーニス。彼女の父親は、現代日本の物差しでジャッジすれば、彼の思い通りに娘を動かそうとする、”毒親”ということになるのかもしれませんが、彼にも彼のストーリーがあります。そして、それを子どもだったユニシスも理解していたようでした。

父親がアフリカ系アメリカ人の元で学んでほしいと思った理由、それは当時、公然と行われていたアフリカ系アメリカ人への暴力と関係がありました。ユーニスの家は、周囲の人に比べれば、少しだけ良い暮らしをしていました。そこが気に入らなかったのか、理由もなく難癖を付けに来るコケージャンもいたようです。KKKは父親を家から連れ出し、暴力をふるったこともあったようです。彼女自身も自宅にいるときに、コケージャンが発砲する場面に出くわしたことがあったと言います。銃弾は誰にもあたらなかったものの、肌の色を理由として受けた理不尽な恐怖は、彼女自身も体験していたことでした。

看護師になるーー父親の希望がいつの間にか自分の希望、そして天職に

タスキギーの学校に転入してからも、”良い先生方に恵まれた”とユーニスは語っています。ただ、この”学校”というのは、おそらく私たちが想像する日本の学校とは違うようです。彼女が語る学校生活で、科目として出てきたのは、家庭科や手工芸等、卒業後に女性が手に職を付けられるような職業訓練校でした。”学校を卒業した”というと、自分で考え、自分の意見をいうような学業を修めたような印象を受けますが、彼女の場合、先生から言われたことができるような訓練を受けたという方が近いかと思います。

算数のテスト等を出す等して、ユーニスの学習具合を気にしていた父親は、今度は学んでいる内容が気になったのか、タスキギー研究所で、看護師になるための勉強ができるのならば、ユーニスには看護師になってほしいと伝えました。はじめは「私のせいで亡くなる人ができると嫌だから」と、断っていたユーニスですが、「そうではない。良い看護師になってみんなを救うんだよ」という父親の勧めを受け入れます。彼女は看護師になるための相談を学校にし、看護を学ぶコースに入ります。

ここはインタビュアも気になったのか、ユーニスに「看護師になることはあなたの意思?それとも、お父さんがやってほしいことだからなったの?」と尋ねます。ユーニスは「私が決めたの。もちろんお父さんの影響があったけど、私が自分自身で決めました」と。この彼女の発言も、彼女の人となりを知る重要なものかと思います。この言葉からは、”彼女は自分の役割(期待されていること)を理解し、受け入れ、それが達成できるように努力する”という人なのかなという印象を受けます。それが良い、悪いではなく、彼女はそのような人だったということです。

こうして彼女は看護師になる道を歩み始めるのですが、この時の彼女の仕事は、患者に水を飲ませたり、お風呂に入れたり・・・と、どちらかというと、介護の仕事に近いものでした。当時、採血等は看護師ではなく、医師が行っていたようです。現在の”看護師”という職業とは少し違う役割だったということは、タスキギー梅毒研究における彼女の役割を理解するのに、抑えておくべき事項かと思います。

また、当時、医療の知識は現場で覚えていくものだったようです。ユーニスは自分の体験談として、お世話をしていた患者が目の前で亡くなったときに、単に寝ているだけだと思い、循環の医師が来るまで、そのまま亡くなった患者と一緒にいたこともあったという話をします。その時にも、罪悪感を抱えそうになる彼女を周囲は前向きに励まし、支えたようですが、その時にかけられた励ましの言葉も素直に受け入れ、一生懸命患者を支えていく中で、看護についても学んでいったようです。卒業してもすぐに資格試験を受ける必要がなかったため、彼女は病院で1年くらい働いたあとに、看護師資格をとりました。

文章として残された記録ですので、あくまでも文字起こしされたインタビューからの印象となりますが、彼女は聡明で、自分の役割を理解し、素直に受け入れている人なんだなという気がしました。全体的に、ユーニスの英語は単語の選び方がとてもシンプルで、素朴な印象を受けますこの点も後々重要になってくるかと思います。

地域社会の健康・公衆衛生のための仕事を始める

看護師になった彼女が最初に行った仕事は、”移動式学校”でした。人々に缶詰の作り方、マットレスの作り方等、職業訓練的なものを教える教師と一緒に、地域を移動しながら、彼女自身は健康についての啓発活動を行っていました。患者の入浴の仕方、体温の仕方、マッサージの仕方から、新米ママには乳児のケアを、妊婦にはマタニティケアも教えていました。医師や助産師に診てもらう必要があるかどうか、彼女に尋ねてくる人も多かったようです。

インタビュアは女性の権利が制限されていた当時の世相から、医師になるチャンスがあったとしたら、看護師ではなく、医師になりたかったか?と、尋ねます。これに対し、ユニースは、自分は人と接するのが好きなので、看護師がよかったと答えています。実際、人と何かをしていた時の思い出話をする際には、彼女は描写が細かくなります。本人も看護師が天職と言うように、人を助けることに”楽しさ”を感じているような印象を受けました。

タスキギー梅毒研究ーー当時を思い返し、彼女は研究をどのように評価するのか?

移動式学校での仕事を楽しくこなしていた彼女ですが、次のキャリアにうつることになります。「いつ、どうして、移動式学校の仕事を辞めたの?」というインタビュアに応えるように、ユーニスは、”タスキギーの梅毒研究”への参加のお誘いが来た時の話を始めます。

「彼らはこの研究を、確かノルウェーで行われた梅毒の研究と比較していました。ノルウェーの白人は神経梅毒にかかっており、彼らは比較検討を行ったのです。当時、メーコン郡では梅毒が蔓延していました。それで、彼らがこの研究をしたいと言ってきたんです」。「タスキギーには当時、梅毒が蔓延していました。アフリカ系アメリカ人の間にも広がっていて80%ちょっとの感染率だったと思います」。

研究開始当時信じられていた”人種によって、梅毒の症状が異なる”ということを、彼女がインタビューを受けた当時も信じているということがまずは驚きでした。このような説があったのは事実ですが、対象者としてアフリカ系アメリカ人の貧困層が選ばれた理由は・・・・。

”もともと梅毒の治療とは縁がない層”                     ”梅毒だとわかっても、生まれつきの性欲が減退することはないであろから、被験者に不都合が生じない”

”病名が明らかになっているにもかかわらず、治療を施さない”というのは、研究を行う医師たちにも少なからず罪悪感があったのでしょう。治療を施さないことを正当化する理由として、人種差別的な屁理屈をつけていました。後者を、公衆衛生曲がユーニスに話していたかどうかはわかりません。ただ、前者の”もともと梅毒の治療とは縁がない層”というのは、悲しいことに事実でした。ユーニスによると、同研究に参加した医師は約2年に一度、3、4ヶ月間、メイコン郡に滞在し、被験者に、検査や治療を行っていました。

「実際、その人(被験者)たちはいままで受けられなかった様々な検査や医療を受けることができました(受けることができて良かったと思います)。(この研究のおかげで、被験者が受けることができた)心臓や胃、肺の検査は、当時は普通の人が受けられない検査でした」。

この研究に参加しなければ、一生医療を受けることがなかったかもしれない人たちを対象とした実験です。この実験が開始された当時は、ペニシリンによる治療が確立する前ですから、被験者にならなくても、感染すれば、医療が受けられずに亡くなっていたかもしれません。治療を受けず、死ぬよりは、実験に参加する方がいい(結局、治療は受けられないわけですが)と、ユーニスは、考えていたようです。

ただ、ここでわからないのが、ペニシリンによる治療法が判明した後の彼女の考え。治療法があるにもかかわらず、それを被験者に隠し、死なせてしまっていた梅毒実験に、彼女はどのような関与をしていたのか?という部分です。この部分に関しての、直接的な証言はありません。これは私の推測に過ぎませんが、ユーニスはこの実験について一部しか知らされていなかったか、理解していなかった可能性が高いように思います。それは、インタビューを通じて、彼女が梅毒実験に対してポジティブな印象で語っているためです。

彼女がこの実験が人種差別的な殺人実験だと思っているとしたら、この実験の名前がでた時に、まず、自己弁護から入らないでしょうか? 彼女がインタビュアに話した研究の概要は、おそらく公衆衛生局に教えられたものを、そのまま住民に繰り返し、伝えていたことではないかという気がします。それは、移動式学校の経験からもわかるように、彼女にとっての”教育”が教えられたことを伝えるというものだったからです。

彼女はまた、「医師は、この研究によって梅毒がコケージャンのような悪影響を、アフリカ系アメリカ人には与えなかったことが証明されたと言っていた」とも語っています。この発言から、彼女はどこかの段階で、”治療をあえてしていない”ということを知ったものの、”治療をしなくても、アフリカ系アメリカ人なら大丈夫”と信じていたのではないでしょうか。

学生時代のユーニスについて、彼女は自分が「良い生徒だった」と発言しています。教師に「良い生徒だ」と言われていたのでしょう。学校で、一般的に”良い生徒”と言えば、理解力があり、物覚えが良い生徒です。言い換えると、「どうして、そうなるの?」「それは違うのではないか?」そんな疑問を持たない生徒です。ユーニスにとって、公衆衛生局の医師は教師であり、教師が言うことに対して、いちいち疑問を持ったりはしなかったし、それは内部告発により、研究が非難を受けるようになってからも変わらなかったようです。

実際、インタビューから、研究がメディアに批判を受けたことについて尋ねられると、「批判記事はフェアな書き方がされていない」と話しています。

「患者を診察するほか、ちょっとした薬も用意していました。当時の患者の多くは、食欲がなく、血液も悪く、鉄分が足りていませんでした。彼らは鉄分やそのようなもの、そしてトニックを提供してくれました。その後、研究が進み、患者が高齢になると、毎年来てくれるようになりました。2、3週間かけてきてくれました。実際には、患者は良い医療を受けていました」。

すごい装置で検査されたり、診察をされ薬を出されたら、症状が改善しなくても、何か治療を受けている気持ちになるでしょう。梅毒以外の、簡単な治療は行われていたとのことですので、何らかの病を治してもらった患者もいました。そうすると、症状が改善しないのは、医師の治療の責任ではなく、病気のせいだと思う人がいても不思議ではありません。

ユーニスがアメリカの医療に残したもの

ユーニス・リバーズは、自分が携わった梅毒研究と、その中での彼女の役割について誇りに思っていました。それは彼女の勝手な思い込みではなく、アメリカ政府から認められたものでした。アラバマ州メーコン郡における性病対策の長期研究に参加し、健康に多大な貢献をしたということで、ユーニスは1958年、オベタ・カルプ・ホビー賞(Oveta Culp Hobby Award)を受賞しています。1963年と1965年には、アメリカ政府職員長年の勤務に対する表彰が行われています。

ユーニスが特別だったのは、そのコミュニケーション能力の高さです。彼女はコケージャン医師ら、公衆衛生局職員との関係も良好で、時にはアフリカ系アメリカ人に対するコケージャン医師の態度の悪さを正すこともありました。このような公平な態度も、アフリカ系アメリカ人の信頼を獲得するに至った理由になっています。彼女はコケージャンの教師ばかりが在籍するジョージア州の学校にも通った経験があります。この時のコメントから、彼女は父親がコケージャンを避けたい理由を理解しつつも、ユーニス自身は肌の色に関係なく、教師をしたっていた様子が伺えます。きっとこれらの経験が彼女の対人関係スキルを磨き上げてきたのでしょう。オベタ・カルプ・ホビー賞(保健教育福祉省が従業員に与える最高の賞)でも、そんな彼女がいたからこそ、研究を続けることができたと評価されていました。これらの受賞は、ユーニスのキャリアを輝かしいものにしただけでなく、結果的には、アフリカ系アメリカ人女性が医療分野で活躍する道の開拓にもつながったということは事実であるようです。

ただし、医療の発展に、アフリカ系アメリカ人の権利拡大に寄与するならば、何をしても良いというわけではありません。ユーニスの他にも、プロジェクトに参加したアフリカ系アメリカ人医師はいました。彼らもまた、アフリカ系アメリカ人が医療に従事する道を開拓することに貢献しました。この点は、評価が難しく、今でも意見が分かれるようです。

内部告発後のユーニス

インタビュアは、ピーター・バクストンによる内部告発後の彼女の状況についても尋ねていました。

インタビュア「患者の家族の反応はどうですか?報道を鵜呑みにしましたか、それともあなたへの信頼関係は続きましたか?」                 ユニース「いいえ。彼らはミセス・リバーズを愛しています」         イ「では、彼らは理解しているのでしょうか?」               ユ「これまでのすべての出来事において、誰も悪いことを言っているのを聞いたことがありません」

ユーニスを主人公としてタスキギー梅毒事件を描いた映画「Miss Evers’ Boys」は、実際のタスキギー事件に忠実に描かれていると高い評価を得ています。しかし、これを観た当時の被験者には、「(アフリカ系アメリカ人女性である)彼女に一体何ができたと言うんだ?」と、映画の中での、ユーニスの描かれ方に不満を持つ人もいたようです。

こういったコメントがあることからも、ユーニスが言う「誰も悪いことを言っているのを聞いたことがありません」は、本当だったのではないかと思います。もちろん、その場合でも、陰で批判されていた可能性は全くないとは言えないと思いますが。

何はともあれ、ユーニスは、新聞報道があった1972年11月以降にも、1975年に引退するまで、郡の保健局に勤務し続けていました。引退した年齢が76歳であると考えると、暴露の後も、彼女は”地域に必要な看護師さん”だったのではないかという気がします。

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アフリカ系アメリカ人看護師であるユーニス・リバーズがタスキギー梅毒実験で果たした役割、それは研究家の中でも評価が分かれているようです。

1つのインタビューという限られた情報の中からですが、私が感じたのは、ユーニスがもし、現在と同じような学校教育、同じような看護研修を受けていれば、彼女はこの研究への参加を、途中で辞めていたのではないかということです。そして、もし、誰かを操ろうと思ったら、一番手っ取り早いのは、その人からきちんとした教育を取り上げること・・・。

一方、この研究にアフリカ系アメリカ人医療従事者を巻き込んだのは、被験者集めのためではなかったのではないかとも思います。研究が公になった際にも、アフリカ系アメリカ人の間で分断(対立)が起これば、自分たちに向けられる批判が軽減できると考えたのではないかという気がします。

考えすぎかもしれませんが・・・・色々な点で、現在のコロナの状況と似ているような気がしてなりません。この件はまた次回、シェアさせていただきます。

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