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張芸謀・外伝ーー世界的女優発掘の天才と、謀女郎(イーモー・ガールズ)

謀女郎(イーモー・ガールズ)とは?

先に、私の大好きな女優さんの1人である、鞏俐(コン・リー)に謝ります。「レスペクトの欠けらもない表現」とお怒りになっていた、謀女郎(イーモー・ガールズ)という言葉を使ってしまい、ごめんなさい。でも、とってもキャッチーだったもので・・・。ちなみに、”女郎”は、”ボンド・ガール”くらいの意味合いです。

さて、2回の北京オリンピックの開会式、閉会式の総監督も務める、中国映画の巨匠、張芸謀監督ですが、世界に羽ばたく中国人女優になる逸材を見つける天才でもあります

本コラムは”外伝”で、本編は、下記です。
”北京五輪セレモニー総監督”の舞台裏:共産主義国で、表現者が生き残るには?

張芸謀自身も初監督となる映画『赤いコーリャン』で主演を務め、後に共に数々の世界的な映画賞を獲得していくパートナーになる、鞏俐を見つけたのは、彼女が北京・中央戯劇学院演劇学科在学中の時でした。

『グリーンデスティニー』や『SAYURI』等でも、主演を務めた、章子怡(チャン・ツィーイ)を発掘したのも、彼女が中央戯劇学院演劇学科在学中の時で、章子怡は、張芸謀の『初恋の来た道』で映画デビューしています。この作品以前にも、テレビドラマやCMに出演経験はあったようですが、人々の記憶に留まることはなかったようです。

謀女郎の特徴は、とにかく美しさが際立っているということ。張芸謀の周りには、なぜこんなに美女が集まるのだろう?というくらい、美女揃いです。今回は、現在の奥様を含め、張芸謀監督の周りにいる女性たちを紹介させていただきたいと思います。

現在の妻、陳婷

”超生”、でも、”事前に任務完了”

”超生”とは、法律で定められた制限人数を超えた子どもを持つことです。2013年、一人っ子政策に反して、張芸謀に7人の子がいたことが暴露されます。当局が調査に乗り出したことで、現在の妻、陳婷との間の3人の子どもがいることは認めており、2014年には罰金1億円以上を支払っています。

残りの4人は?が気になるところですが、そもそも7人いたのかという部分も不明です。というのも、この件を暴露したのがオーデションに落とされた女優だと噂されているからです。張芸謀には前妻がいて、彼女との間に少なくとも1人、張末(チャン・モー)という娘がいます。張末は張芸謀作品に色々な形で携わっているようです。

この”超生”事件、そもそも当局は、2013年に至るまで気がつかなかったのか?といえば、”特事特弁(特別な階級の人には特別扱いをする)”として、気がつかないふりをしていたのではないかと思います。日本でいうところの忖度で、似たようなことは中国でもあります。
国民党だった父親の影響で、最底辺の生活を送っていた張芸謀が今や特別階級。2人のお子さんは、戸籍がないため本来ならば学校に通えないのですが、そこは特別階級で、北京の”貴族学校”に通っていたそうです。

その後、超高齢化社会に対応するため、共産党は2016年以降、産児制限を2人までに変更。さらに2021年には、産児制限を3人にまでに変更しています。ここで驚くのが妻、陳婷の行動です。政策変更の記事を引用する形で、SNSに投稿したコメントが・・・。

「事前に、任務完了」。

つっ強い・・・。

北京オリンピックに対し、まさかのディスり

陳婷は、1981年生まれ、無錫市出身で、それはそれはお綺麗な方です。ただ、美しいその外見からも、強そうな感じは伝わってきます。(「張芸謀 陳婷」で検索していただくと、写真が出てきます。)

北京電影学院を卒業後、無錫舞踏団のダンサーだったようですが、テレビドラマにも出演経験があるそうです。2011年12月に結婚した張芸謀は、1950年生まれですので・・・かなりの年の差カップルです。

この奥様が国家の一大行事にも、強烈な投稿をされたようで・・・。

北京冬季五輪開閉会式の総監督、張芸謀さんの妻陳婷さんは14日、短文投稿サイト微博(ウェイボ)で「狂った仕事量と極度に不健康な生活で命を消耗した」と、重圧と準備に追われた夫の体を案じた「申し訳ないが私には大局的な見方もないし、使命感も分からない」と吐露。“国家の一大行事”に否定的な思いもつづり、一部で波紋を呼んでいる。
 張さんは2008年夏季五輪でも開閉会式の総監督を務めた。陳さんは前回のプレッシャーと苦しみを「また繰り返すの?」と反対したと説明。「私ほど大会が終わるのをひたすら待ち望んでいる人はいない」とした。

https://ryukyushimpo.jp/kyodo/entry-1470561.html

使命感もわからない・・・確かに、私も、コロナや他の伝染病が拡大する街を都市封鎖して、住民を家の中に閉じ込め、食料も買いにいけない状況に追い込んだり、食糧も電力も不足する中、どれだけ”エコ”を謳っても、大量の食糧、電力が必要になるオリンピックを開催する意味があったのか?とは思います。とはいえ・・・微博でこんな怖いことは言えません。

当局からの”お迎え”が来ないのは、ひとえに張芸謀の奥さんだからだとは思います。

鞏俐と、章子怡

演技経験よりも、目の印象が強い女性

張芸謀に見出され、張芸謀と共に世界中の人々の心を掴む作品を作ってきた鞏俐(コン・リー)と、章子怡(チャン・ツィーイ)。強い女性といえば、この2人も強い女性です。昔のインタビュー記事で、張芸謀が主演女優選びについて話しているものがあったのですが、目の印象が強い女性を選んでいるということでした。演技経験はむしろない方が良く、自らの作品に合うような演技指導を自分で行いたいということも話していました。鞏俐も、章子怡も、張芸謀に見出されたのは、北京・中央戯劇学院演劇学科在学中の時でした。

鞏俐

張芸謀はこの2人以外にも、後に素晴らしい女優になっていく逸材を発掘し続けていますが、個人的に、張芸謀作品は鞏俐が最高だと思っています。
ただ、鞏俐の演技が最も素晴らしかったのは、張芸謀の学友、陳凱歌監督の『さらば、わが愛/覇王別姫』だと、これも個人的に思います。この作品は、日本でも人気の高かった香港の故・レスリー・チャン(張國榮)が京劇の女形で登場し、舞台の上でコンビを組んでいた、張豊毅(チャン・フォンイー)に敵わぬ恋をします。その恋敵で、張豊毅の演じる役の妻で、元娼婦役を鞏俐が演じました。この鞏俐は、これほど嫌な女はいるのか?というほど、嫌な女なのですが、それがまた、レスリー・チャンの”女の嫉妬”を最大限に引き出しているようで、共感しながら憎しみあい、憎しみあいながら共感するという、独特の関係を築いていきます。

鞏俐は、ハリウッド映画『SAYURI』でも、さゆり役の章子怡をいじめる役でしたが、映画自体がいろいろな違和感しかなかったため、全く記憶に残っていません。

張芸謀作品では、初期の作品も良かったですが、『活きる』や『妻への家路』は、彼女なしでは作品が完成しなかったのではないかというほど。『妻への家路』は、カンヌ国際映画祭で上映された際に、”全米が泣いた”ではなく、”スピルバーグ監督が1時間近く泣いた””ノーベル賞受賞者の莫言氏も泣きはらした目を見せた”と報じられています。(「人民網日本語版」2014年5月23日

一方、私生活では現在、2回目の結婚中のようです。

1996年、シンガポール人の実業家・黄和祥と結婚。2008年にはシンガポール国籍を取得。中国国籍ではなくなったため、全国政協委員の資格を取り消された。2009年には黄和祥と離婚した。2019年6月、ジャン・ミッシェル・ジャール(フランスのミュージシャン)と結婚したことが明らかになったと中国メディアが報じた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/コン・リー

そもそも・・・なのですが、鞏俐と張芸謀が私生活でもパートナーだった時、張芸謀には妻がいました。前妻との間の娘、張末(チャン・モー)は、鞏俐がいかに彼女の家庭を壊していったのか?メディアのインタビューに答えたこともあります。

張末は以前、インタビューに答え、コン・リーが両親の仲を裂き、娘の自分を敵視したほか、子供時代に誰もが享受するはずの幼い楽しみさえ奪った、と告白。さらに自著「我的父親母親」でも、コン・リーへの攻撃を綴っている。
コン・リーと交際当時のチャン監督を知る人の話によると、ある日コン・リーがチャン監督に電話をかけたが、混線のため数時間にわたってつながらず、その「空白時間」に娘との会話を楽しんでいたと誤解して、激怒したという。その様子を見たチャン監督が、娘の母親になるのは無理だと判断し、2人の破局につながったとしている。(2009年レコードチャイナ)

https://www.recordchina.co.jp/b34448-s0-c70-d0000.html

このインタビューの頃の鞏俐は、まだちょっと尖ったところがあります。

「私はただの1人の女優で、ビックスターという意識はありません。行きたいところに行くし、屋台に食べたいものがあればそこで食べる。パパラッチが写真を撮りたいなら、お好きにどうぞとしか言えません」(2008年9月)

https://www.excite.co.jp/news/article/Searchina_20080916071/

このコメント、最初の婚姻中である2008年、映画『上海』の共演者との不倫疑惑が出ていた時のものですから、なかなかすごいものがあります。

しかし、その後、丸くなったのか、張芸謀に対しては配慮したコメントをするようにしているのか、コメントのトーンが少し違います。

 また恩師であり過去に恋人関係にあったとされる、チャン監督の「一人っ子政策違反」については、「監督の妻や子どもに会ったことはありません。現場への出入りは家族も禁じられているので、会う機会はなかった」と語った。コメントを控え慎重に対応するようだ。(2013年12月)

https://news.livedoor.com/article/detail/8310219/

「何もかも過去のいい思い出。一緒になれなかったからと言って、それが全て後悔につながるわけじゃない」としている。現在はそれぞれが自分の生活を持っているが、引き続き一緒に仕事をするチャンスが与えられることに、幸福を感じる」。
コン・リーにとって監督はすでに「家族のような存在」だという。監督の行動や考え方を熟知しているため、一緒に仕事をするのは「やりやすい」と語る。親しいながらも一定の距離がある関係を、今は心地よく感じているという。(2013年9月)

https://www.recordchina.co.jp/b76243-s0-c70-d0044.html

そして、中国中を騒がせたのは・・・2014年のカンヌ国際映画祭では、鞏俐と張末(張芸謀の娘)がハグをしたということがニュースになりました。

「世紀の雪解け」に熱い注目!女優コン・リー、元不倫相手のチャン・イーモウ監督娘と抱擁―カンヌ映画祭(2014年5月25日、レコードチャイナ、ハグ写真付き)

2人は、『妻への家路』でカンヌに来ていたようですが、アメリカ留学経験のある、張末は、この作品の字幕を担当したようです。さらに、この”世紀の雪解け”がさらに感動的なのは、この2人のすぐ横に、張芸謀の現在の妻である陳婷がいて、暖かく見守っている姿もあったということ。ちなみに、義母:陳婷は、義理の娘:張末の2つ年上とのことです。

張芸謀、何だか凄すぎます。

ちなみに、鞏俐は、”演技力の70%は天性のものであり、自分の場合は、それを張芸謀が育ててくれた””張芸謀は家族みたいなもの”と語っています。

章子怡

一方、鞏俐に続くかと思われた、章子怡(チャン・ツィイー)は少し違った道を歩みます。”小鞏俐”(ポスト・コン・リーみたいな意味)と呼ばれることを嫌っていたからかもしれません。『初恋のきた道』(1999年)の後、すぐにハリウッドに進出します。台湾出身のアン・リー(李安)監督の武侠映画「グリーン・デスティニー」(2000年)で、チョウ・ヨンファ(周潤發)やミシェール・ヨー(楊紫瓊)等、すでにハリウッドで活躍していた中国人俳優と共演します。

続く、2001年には『ラッシュアワー2』でジャッキー・チェン(成龍)と共演。ジャッキー・チェンといえば、「外国語上達の秘訣は、海外でパートナーを作ること」と言ったとか、言わないとかいう人です。この作品で、流暢な英語が彼女のキャリアに大きく関わると感じた章子怡は猛勉強したと言われています。ジャッキー・チェンは共演者と”仲良く”なることでも有名ですから、今後のキャリア築き方のアドバイスもあったかもしれません(冗談っぽく書いていますが、この部分が気になる出来事が後に出てきます)。

章子怡の中央戯劇学院時代の同級生に、劉燁(リュ・イエ)がいます。劉燁とたまたま話をする機会があったのですが、章子怡に「ハリウッドはいいよ」「ハリウッドにおいでよ」と、強く勧められていたそうです。 章子怡と劉燁とは、婁燁(ロウ・イエ)監督の『パープル・バタフライ』(2003年)で共演していますので、おそらく勧められたのは、撮影中だと思います。ちなみに、この映画には、仲村トオルも出演しています。

同級生に勧めるくらいですから、『グリーン・デスティニー』も『ラッシュアワー2』も、章子怡にとって、とっても良い経験だったのでしょう。『グリーン・デスティニー』はアカデミー外国語映画賞を受賞します。外国語映画ですが、他の部門もいろいろ受賞した話題作となりました。

一方、張芸謀は、実は章子怡のハリウッドでの活躍をあまりおもしろいとは思わなかったのではないでしょうか。ーーここからは私の勝手な憶測です。
「章子怡を発掘したのは、俺だ!」と言わんばかりに、2002年、張芸謀初となる武侠映画『HERO』を制作します。この作品も、李連杰(ジェット・リー)、梁朝偉(トニー・レオン)、張曼玉(マギー・チャン)と、章子怡の他にも豪華な顔ぶれです。香港電影金像奨では最多となる7部門で受賞し、その中には、コスチューム&メイクでワダ・エミ、日本でのキャリアもある譚盾(タン・ドュン)が音楽賞を受賞します。譚盾は『グリーン・デスティニー』でも音楽を担当しており、アカデミー・作曲賞を受賞しています。

なぜこんな憶測をしたかといえば、鞏俐が全く関係のないインタビューで、自分の作品選びについて、「私はアン・リー監督の武侠映画には出ない」ときっぱりと言っていたことです。すでに恋人関係を終了させていた2人ですが、張芸謀は鞏俐に何か愚痴っていたりしたのでしょうか?
ただし、鞏俐と章子怡は仲の良さそうなところを映画祭等で披露していますし、章子怡の映画デビュー作の『初恋の来た道』は、ベルリン国際映画祭・審査員グランプリ受賞していますが、その時の審査員長は鞏俐でした。

何はともあれ、一躍、世界スターとなった章子怡はこの頃、”四天王”ならぬ、”四小花旦(四大若手女優)”と呼ばれるほどになりました。

張芸謀監督は、2004年にも、章子怡が出演する武侠映画『LOVERS』を発表します。この作品もアンディ・ラウ(劉徳華)や、金城武と、主演が豪華です。

韓国・中国合作映画『MUSA -武士-』(2001年)や、日本映画『オペレッタ狸御殿』(2005年)にも出演しています。中国映画『ジャスミンの花開く』(2004年)では、1930年〜80年代の上海を舞台に、1人3役(3世代)を演じる等、難しい役にも挑戦しています。
ウォン・カーウァイ監督の香港映画『2046』(2004年)では、鞏俐と共演。この作品は、日本人役で木村拓哉も出演しています。続く『SAYURI』(2005年)で主演を務めますが、この作品でも、鞏俐と共演。先輩芸妓役の鞏俐に虐められます。いろいろ言いたくなる作品ですが、章子怡はゴールデングローブ賞主演女優賞にノミネートされます。

私生活では 一番最初は香港人富豪との交際が囁かれていましたが、富豪サイドの両親が結婚を許さず、破局したような記憶があります。どういうわけか、章子怡は香港人にあまりよく思われていないようなところがありました。香港メディアも、”章子怡が買い物中の店舗でしゃがみ込んだ(ヤンキー座り?)際に、下着が見えそうだった。ハリウッドを気取っても、育ちは変えられない”みたいな意地悪な記事も見たことがあります。返還後、大陸中国と香港では、”精神的な(見えない)対立”のようなものがあったようですので、その煽りを受けたのかもしれません。章子怡はインタビューを受ける際に、ハリウッド式に契約書を交わすことを受ける条件としていたそうです。

ニューヨークのイスラエル人経営者とのお付き合いは、その後だったように思います。ヴィヴィ・ネヴォとの交際時代には、彼所有の島のビーチで、水着姿の2人がイチャイチャする(おそらく水着を脱いだ写真も)大量の写真がネット上に投稿されるという事件もありました。

2007年5月からはニューヨークで投資会社を経営するイスラエル人のヴィヴィ・ネヴォ英語版)と交際しており、2008年7月に結婚を発表[10]。ネヴォは映画会社ワインスタイン・カンパニーの株主で、この映画会社の3本の映画で主演した[11]が、2010年に二人は離婚している。

Wikipedia

ヴィヴィ・ネヴォと結婚をして離婚をしたのか、婚約中に破局したのかは、あまりはっきりしていないようです。

現在、結婚しているのが、ロックミュージシャンの汪峰(ワン・フォン)ということですが、女性関連の評判がなかなかの人のようで。交際中の未成年が妊娠し、20歳になったら結婚する約束で、女性が出産することにしたところ、子どもが生まれる頃には別の人と結婚していた・・・という話もあります。

章子怡の両親、特に母親は交際相手に厳しく、「うちの子とあなたとでは、格が違いすぎます!」と言って別れさせたことがある・・・という噂も聞いたことがあります。実際、この結婚は、当初、両親から歓迎されないものだったようです。

国際派女優のチャン・ツィイーは15年、ワン・フォンと結婚し、同年末には2人の間の第一子となる娘が誕生している。チャン・ツィイーは現在、ワン・フォンと共にバラエティー番組「妻子的浪漫旅行」シーズン2に出演中だが、交際中だけでなく結婚してからもずっと両親に猛反対され続けていたことを初めて番組内で明かした。
チャン・ツィイーの両親が最も問題視していたのは、ワン・フォンに2回の離婚歴があり、2人目の妻とパートナーだったモデル女性との間にそれぞれ娘がいることだった。反対を押し切って結婚後も、「両親の前ではワン・フォンの名前を口にできなかった」と語っている。結婚当初は両親と同じマンションに住んでいたが、ある日、夫婦で出かけようとした時にエレベーター内で両親にばったり出くわし、「身も凍るような思いをした」と語っている。現在は両親とも和解し、良好な関係を結んでいるとのこと。なおチャン・ツィイーの結婚生活は、14歳になる義理の娘との仲良しぶりでも注目されており、現在のところいたって円満のようだ。(2019年)

https://www.recordchina.co.jp/b693885-s0-c70-d0044.html

実子もいながら、章子怡が14歳の義理の娘ともうまくやっているというのは、(ごめんなさい)ちょっとびっくりでした。歳を重ねるごとに、みんな、丸くなっていくのですね。

グレーな章子怡

ほのぼのとした話題を出しておいて、最後にこんなことを付け足すのも・・・ですが、章子怡は中国致公党の党員です。中国致公党は華僑(海外に住む中国人)で構成された党ですが、実質、共産党の外郭団体です。彼女をはじめ、著名な芸能人を入党させているのは、広告塔が目的だと思いますので、彼女らが党大会に出席したことは広く宣伝されています。

いつ加入したのか?どういう経緯か?等は、わかりません。
ここで再びジャッキー・チェンの話です。ジャッキー・チェンは、1986年の天安門事件が起こった時には、他の香港映画人と共に、事件を非難する声明を出していました。しかし、いつからか、”共産党万歳”サイドになり、香港で起こった”時代革命”の時には、学生を非難する側に。「中国人には管理が必要。自由があると台湾、香港みたいに混乱する」というような謎発言もしていますし、「共産党はすごい。自分も共産党員になりたーい!」みたいな発言も。

”犬”とすっぱり切り捨てたいところですが、彼の出自も結構微妙。父親は元国民党のスパイで、本名が違うこと、母親は麻薬の運び屋で、父親に情けで見逃してもらったことがきっかけで結婚したこと・・・等々、本人自身も近年になって知ったそうです。
また、ジャッキー・チェンの息子も、香港でデビューしたものの、芽が出なかっただけでなく、問題行動が度々メディアに取り上げられていました。極め付けは、2014年、中国で麻薬絡みで逮捕されています。この時、ジャッキー・チェンの息子ということもあり、刑は軽く済んだようです。

『ラッシュアワー2』の撮影時、章子怡に、今後のキャリア展開について、アドバイスを求められたら、”うまくやっていくコツ”は、話すかもしれないなあと。これは私の邪推です。

さらに、章子怡の政治活動に、もしかして関係があるかもしれないと思うのが、薄熙来の失脚です。薄熙来は、中国共産党の最高指導部入りを有望視されつつも、2012年に失脚した、前重慶市党委書記兼党政治局員です。失脚の原因となったのは、妻の起こしたと思われる殺人事件捜査に対して、妨害、隠蔽を行おうとしたことでした。その後、不正蓄財や、100人以上の女性と不適切な関係があったこと等、いろいろな問題が出てきました。
章子怡の高級娼婦疑惑が週刊誌に取り上げられたのが、同じ年の2012年です。1回あたりの金額や回数等、仲介役となったとされる人が暴露しているのですが、それによると、彼女がこの”ビジネス”で、10年間で稼いだお金は91億円とも言われています。章子怡はこれを否定。名誉毀損として、雑誌記者を裁判所に訴え、徹底的に闘うということでしたが、2013年週刊誌記者と和解したことを発表。和解内容が公表されてないこともあり、ある程度、事実だったのではないか?という憶測が広がりました。章子怡が逮捕されたりしていないため、真相は全くわかりません。

どこも同じだとは思いますが、共産党は一枚岩ではありません。共産党の有力者と親しいから安心だと思ったら、大間違いで、大物有力者が失脚すれば、側近や関係していた人も危うくなります。

そして、ハリウッド映画界には、かなり中国資本が入っていると言われています。チベットを支持するリチャード・ギアが干された形になっているのは、出資者の関係で、出演できる映画がないからだとも言われています。

何はともあれ、章子怡の個人資産は、2013年でも約134億円あると言われていました。女優としての契約金も、”映画の主演+プロデュース+投資を行い、利益配当を得る”という方法を取っているそうで(「人民網日本語版」2013年12月9日)章子怡は、ビジネスウーマンとしてもかなりやり手のようです。

謀女郎たち

張芸謀、イーモウ・ガールズを選ぶ基準

張監督は、女優を選ぶ際の基準に関して、インタビューに答えたものがありました。2014年のものです。「自分の好みでは決してないが、小顔で厳しい撮影に耐えられる女優でなければならない」としているそうです。

  1. 役柄に合わせたキャスティング

  2. 直感

  3. 舞踊のセンス

1)当たり前といえば、当たり前のものですが、例えば、「金陵十三釵」の時は・・・1)30歳くらい2)若く見える▽演技力がある3)きれいな標準中国語を話す4)できれば外国語も話せる・・・だったそうです。
2)誰かの型にはめることはなく、直感、第一印象で決めるそうで、特に「良い役者というのは、普段は美人ではなくても、スクリーン上では輝く」と。インタビューでは、”「イーモウ・ガール」となってきた女優の容姿はさまざまであるものの、皆強いインパクトがあるのはそのためかもしれない”とありますが、個人的には容姿は結構似ているーー正統派の美人で、目に意思の強さが現れているーーと、思うのですが・・・。
3)そういえば・・・鞏俐、章子怡、董潔、周冬雨、倪妮、張慧雯・・・全て舞踏が特技な女優さんでした。

劉浩存(リウ・ハオツン):イーモウ・ガールズは成功への近道?

「映画に長年携わってきた自分にとって、特別な意味を持ち、映画へのラブレターのような作品」という張芸謀が語る『一秒鐘』(2020年、One Second)。1000人の高校生から選ばれたのが劉浩存。この作品で、アジア・フィルム・アワード(AFA)・最優秀新人俳優賞を受賞しています。
文化大革命を背景に描いた作品であるためか、ベルリン国際映画祭でゴールデンベアを競うために選ばれましたが、上映直前に、”映像トラブル”ということで撤回されてしまいました。

劉浩存に対し、張芸謀から出演作選びのアドバイスがあったと言います。「映画でもドラマでも、脚本さえよければ出演してよい。時代が変わってきているので、融通を利かせるべき」「お金を稼ぐために自分を消耗しないように。よい作品に着実に取り組むように」というものだったそうです。(レコードチャイナ)すでに色々な作品に出演しているようです。

さらに、イーモウ・ガールズである彼女を羨む声が上がっているのは、張芸謀の妻、陳婷からも気に入られていることです。

3月3日、チャン監督夫人が自身のSNSに投稿したコメントに注目が集まった。そこには、彼女が立ち上げた美容・健康ブランドのイメージキャラクターとして、リウ・ハオツンを起用したと書かれていた
これを見たネットユーザーから驚きや羨望の声が上がり、「監督一家はリウ・ハオツンのことがかなりお気に入りなんだね」、「コネのなかった普通の女の子が、イーモウ・ガールになってから出世が早い」などのコメントが寄せられた。(2021年)

(ANOMADO)

こんなことを言っては何ですが・・・張芸謀が”若い子好き”というのは、自分の娘と2つしか年齢が違わない陳婷と結婚していることで、陳婷本人もわかっていることだと思います。にもかかわらず、嫉妬したり、心配することなく、応援するような立場になれるのは、妻としてどっしりと構えられているというか、さすが夫の健康を案じて北京オリンピックを批判できる強い妻です。

周冬雨(チョウ・ドンユィ):ダンス学校の合格の安堵感で、カメラテストをクリア

演技経験が全くなかったという周冬雨は、『サンザシの樹の下で』(2010年)で、いきなり映画デビュー。この1本で、ポスト・チャン・ツィイーとして注目されるほど、見事な演技を披露し、中国では”13億人の妹”と呼ばれ、大ブレーク。アジア・フィルム・アワード新人賞、海映画批評家賞最優秀新人賞も受賞しています。

オーデションの経緯も独特です。

「私はダンスを学ぶため、芸術学校を受験したのですが、受験日にこの映画の助監督に声をかけられ、オーディション用の動画を撮られたんです。けれども、試験を控えていてとても緊張していたため、その動画は良くなくて落ちてしまいました
そして翌日、無事、合格して気分が良くなっていたところで、また昨日の助監督に出会いました。でも、私の雰囲気があまりに違っていたので、助監督は私とは気づかず、また動画を撮ってくれました。
実はとのときは、チャン・イーモウ監督の映画の話が本当とは思えなくて……(笑)。でも、気分が良かったので撮ってもらったのですが、その動画が良かったみたいです。カメラテストに呼ばれ、何度かの審査を経て、最終的にジンチュウ役に抜擢されました。

https://www.moviecollection.jp/interview/34822/

経歴がユニークなのが、この作品の後にも、5、6本の作品に出演しながら、「2015年、北京電影学院を卒業」と、経歴にあることです。鞏俐や、章子怡が張芸謀が映画デビュー作とはいえ、演劇の学校に通っていましたから、周冬雨の場合は、本当に素人からの採用だったようです。

董潔(ドン・ジエ):数万人の競争を勝ち抜いた、演技ど素人だったのに、競争は嫌い!?

”イーモウ・ガールズになれば成功できる!”と、ギラギラした4、5万人が応募者した『至福のとき』(2000年)のオーデション。そのヒロインに選ばれたのが、当時”軍人”だった董潔です。6歳からダンスを学んでいた董潔は、10歳の時に親元を離れ、人民解放軍広州軍区戦士歌舞団に入団。1996年に、北京解放軍芸術学院舞踏科を卒業し、正式に軍人として広州軍区戦士歌舞団に所属しました。
この歌舞団、例えると、自衛隊に音楽隊があるようなものですが、1番の特徴は、演目にプロパガンダ作品が入っていること。敵役は、20年前に見た時の敵国は日本でした。ターゲットがその時々の”中共の敵”になるのか、ずっと日本なのかはわかりません。

さて、『至福のとき』では、演技経験ゼロにも関わらず、盲目の少女という難しい役どころを、可憐に演じ、中国映画華表賞・最優秀新人賞を受賞します。その後、たくさんの映画やドラマに出演しているようですが、メディア等であまり名前を聞かないな(外国人の立場で)と思っていたら、堅実派だったようです。

張芸謀監督はわずか47日間で『至福のとき』を撮り終え、ヒロインを演じた董潔は一躍脚光を浴び「ラッキーガール」となった。しかし、董潔は「謀女郎」の名を借りて大ブレークすることはなかった。穏やかで争いごとを好まない性格から、ゆっくりと着実に女優としてのキャリアを重ね、多くの監督との様々な作品の中で素晴らしい演技を見せている

http://japanese.china.org.cn/geino/2009-08/18/content_18358125_3.htm

張慧雯(チャン・ホイウェン):謀女郎の娘役としてデビューした、謀女郎。

『妻への家路』(2014年)で、1代目謀女郎の鞏俐の娘役として、抜擢されたのが張慧雯。バレリーナを目指す女の子という役どころで、当時、北京舞踏学院在学中に抜擢されました。張芸謀の起用理由は、「輝く瞳に惹かれた」ということ。

ただ、踊りを学んでいたとはいえ、彼女がいた学部は、中国民族民間舞。西洋のバレエとはかなり違います。
例えば、バレエは基本姿勢が両方のかかとをくっつけた形のハの字ですが、中国舞踊はその逆のハの字だそうです。爪先で立つ等、上へ上へ伸びていくような印象のあるバレエですが、中国舞踊は地方にもよると思いますが、例えば農業が盛んだった地方では、基本的に腰を落とした姿勢で踊ったりします。貴族のエンターテインメントであったバレエと、生活の中から発展していった民族舞踊との違いかと思います。

実際、張慧雯は撮影前の2ヶ月間、バレエの特訓を受けたそうです。演技指導として、張芸謀から言われたのは、「鞏俐を徹底的に見習え」。鞏俐からの演技指導を受けたと言います。
そのかいもあってか、張慧雯は、アジア・フィルム・アワード最優秀新人賞を受賞しています。

撮影は彼女が大学時代に行われたものの、学校の成績も優秀だったそうで、規則正しい生活を送っていた彼女のニックネームは”おばあちゃん”

卒業論文は忙しい撮影の合間に書き上げたにも関わらず、100点満点のうち91点を獲得するという優秀な学生だ。大学時代のニックネームは「おばあちゃん」だという。早寝早起きで規則正しい生活が、「まるでお年寄りのよう」と言われたことにちなんでいる。
そんな規則正しい生活を一変させたのが、「帰来」への抜擢だった。演技経験ゼロの彼女がチャン監督に言われたのは、同作で母親役を演じたコン・リーを「徹底的に見習え」というもの。「帰来」のチャン・ホイウェンには、若い頃のコン・リーの「面影がある」と評判になっているが、「内から外へと伝わる演技の感覚を見習え」と言われ、コン・リーさんにも指導を受けた。それが『似ている』ことにつながったのでは?」と語っている。(中略)
いきなり大作に抜擢されたラッキーガールだが、卒業後は本格的に女優活動をスタートする予定。今後の出演作選びについては、「誰よりチャン監督に相談したい」と語っており、監督に対する崇拝の念は強いようだ

https://www.recordchina.co.jp/b89009-s0-c70-d0044.html

作品選びを本当に張芸謀に相談しながら慎重に行っているのか、出演作はさほど多くないようです。中国版『世界の中心で、愛を叫ぶ』で主演に抜擢されたことでも、注目を浴びました。

倪妮(ニー・ニー):章子怡の妹?、3代目”四小花旦”の1人

南京市出身。倪妮は学生時代、水泳の国家二級選手として活躍していた他、ダンス選手権で優勝経験もあったそうです。大学でラジオやTV番組のMCについて学んでいたところ、演技もおもしろいかもと思っていた矢先、『金陵十三釵』(2011年)でデビューすることになったそうです。オーディションで選んだ理由について、張芸謀は、「娼婦のリーダーの役なので、女性らしく、ムードある女優が必要だった」と語っていたそうです。本作はプロパガンダ的な要素があるため、日本では公開されていません。

倪妮は、章子怡と同様、”四小花旦(四大若手女優)”の1人。章子怡が1代目、倪妮は3台目です。メディア等で、”女王・章子怡の妹、倪妮”という言い方もされることがあるようです。章子怡のそっくりさんは別の子がいるので、妹なのではないかと。

魏敏芝(ウェイ・ミンジ):”最も遠く”にいながら、”最も近い位置”を目指す、異色の謀女郎。

最後に紹介する魏敏芝(ウェイ・ミンジ)は、他の謀女郎とは一味違います。彼女が映画デビューした『あの子を探して』は、サンパウロ国際映画祭金鶏賞、ヴェネチア国際映画祭金獅子賞など、国際的な映画賞を10も受賞し、張芸謀をさらに一段高いところに引き上げた作品と言われています。
そんな作品の、主演を務めたにも関わらず、彼女を選んだ張本人である、張芸謀に「魏敏芝は女優には向かない、ましてや芸能界には向かない、美人でもないし、スタイルも良くない 」と、言われてしまった過去があります。

ひどいよ、張芸謀!

と、言う前に。この作品のキャスティングには特徴があります。

『あの子を探して』の主人公は、農村部に住む子どもです。この農村の子どもたちは、家の手伝い等で、なかなか学校に通おうとする意欲がありません。そんな時に、学校を一時的に離れることになってしまった先生が、「短期間でも学校を閉めれば、生徒がいなくなってしまう」ことを危惧し、代理の先生を探します。そこで連れられてきたのが13歳の主人公でした。この作品は、ほとんど農村に住んでいる素人が出演しています。

田舎の話なので、プロでない役者をすべて使って演技をさせることを最初から決めていたのだ。 そこで、スタッフは手分けして河北省の山村に行き、キャスティングを行った。(中略)
その中に双子の姉妹がおり、助監督の李紅の目にとまった。 一人は魏民子という姉、もう一人は魏聡子という妹である。当時、私の目に留まったのは妹の魏聡之でした。 しかし、妹はとても内気で恥ずかしがり屋な女の子だった。 李紅が「歌って踊れるか」と聞くと、彼女は黙って姉の後ろに隠れていた。 この時、妙案を思いついた魏敏實が一歩前に出て、「できる!」と言った。 その時、彼女は「My Country and I」という曲を歌い、歌いながら踊っていた。 これは、すぐに李鴻章の心をとらえた。 そして、魏敏芝に「この映画に出演する勇気はあるか」と尋ねると、彼女は何も考えずに「はい!」と答えた。 そうして、魏敏芝はオーディションに引っ張り出されることになった。

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この撮影がオーデションからしてどれくらい特殊だったのか?というのは、この映画には、『あの子を探してができるまで』というメイキングがあるくらいです。本作よりもこちらのドキュメンタリーの方がいいという人もいます。

魏敏芝の主演が決まったのは、「他のオーディション参加者と違って、魏敏芝は自然でリアルで、カメラをまったく怖がらなかったこと」と言います。謀女郎の1人、董潔がいくら演技がど素人だったとはいえ、舞踏を学んでおり、舞台に上がって人前で踊るという経験はありました。魏敏芝は、自分の住む農村部から出たことのない、おそらく主人公と変わらない13歳の少女だったのです。

作品中、代理の先生になったとはいえ、主人公は、まともな教育を受けたことがないだけでなく、本人がまだ子どもです。ただ、先生になる時の条件が「1人も辞めさせないこと」(学校を辞めた生徒の分、報酬が減らされてしまう)だったので、右往左往しながら、なんとか1人も脱落者を作らないように奮闘します・・・というよりはちゃめちゃなことをします。このめちゃくちゃ加減というか、見ているものをハラハラさせるあたり、魏敏芝演じる主人公の、子どもらしさが本当に自然でした。

山外からも多くの人が会いに来て、彼女の家には贈り物や手紙がたくさんあった。 人気女優に負けないくらいの人気だった。 当時は、毎日数え切れないほどのメディアから取材を受け、数え切れないほどの学校から誘われ、多くの演出家から芝居に誘われた。 これには、まだ若く、世の中をあまり見ていない魏敏芝も圧倒された。 13歳になる前、魏敏芝は山から出たことがなかった。 その時の感覚は、「"世界は私たちの村と同じくらい大きい "ということでした」と振り返る。
このような大きな変化に直面し、魏敏芝は突然のことに戸惑うようになった。 「当時は、明るく輝く外の世界を見に行くのか、田舎に帰って実践的に勉強を続けるのか、迷っていました」。
この時、彼女は張芸謀のことを思い出した。 張芸謀は、「まだ若いんだから、しっかり勉強しないと 」と思っていた。

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このような状況の中、張芸謀は、魏敏芝の次の作品を気にするメディアに対し、先ほどのセリフを言ったようでした。人生を誤ってしまう子役スターが多いことを考えると、この時、魏敏芝を、華やかな芸能界に引き込まなかった張芸謀は、懸命だったと思います。 結局、魏敏芝は石家荘のエリート高校に進学することを選び、新たな勉強を始めることになりました。それは”彼女が初めて山を降りた時”でもありました。

映画から一旦離れてみて、彼女はより一層、映画に関わりたいと思ったようです。「俳優にはなれないから、監督になろう」と。しかし、彼女のこの夢はそんなに簡単にたどりつくものではなかったようです。

19歳の時、魏敏芝は先生に「監督になりたい」と入試の目標を告げた。 そして、映画の最高学府である北京や中国劇場に入学することを決意したのだ。 しかし、夢は良かったが、現実は先生や家族から強く反対された。 父親からは「監督を夢見ていないで、教員養成学校に行って、姉のように教える方がいい」と忠告された。 「本気にならないように」と。 しかし、今回はもう人の意見を聞かず、どんな状況でも挑戦してみようと思ったのだ。 北京電影学院を受験するために北京に到着した彼女は、不本意ながら二次選考で落選してしまった。

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「一本の映画で偶然に有名になっただけで、芸術的才能がなく、芸術の道にふさわしくない」というネットの書き込みも、彼女にプレッシャーをかけたと言います。

2004年、魏敏芝は460点の成績で西安外国語学院西安映画テレビメディア学院の振付・演出科に入学することができた。監督という夢にはまだほど遠いものの、彼女は十分な幸運を感じていた。
その1年後、大学受験の経験をもとにした映画『夜の童話』を監督・出演し、ついに監督としての夢を叶える。

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この後、アメリカ留学を結婚し、そこで出会った中華系の夫と結婚し、中国に戻ってきます。

2010年に公開された『サンザシの樹の下で』のシェアリング・セッションに参加した魏敏芝は、出演者に質問をします。驚いた張芸謀は「何年も合わないうちに、君は成長したね。まるで物語のようだ」と。それに対し、「『あの子を探して』の制作への参加は、私の人生を変えました」と感謝を伝えたと言います。「この映画がなかったら、私はきっと家で豚を飼い、結婚し、子供を産み、専業主婦になっていたでしょう」。(*彼女の実家は養豚業を営んでおり、子どもの頃、餌やりの手伝いをしていた)。

彼女の人生最大の夢は、20年前に受けた恩に報いるため、一度、張芸謀監督のもとで助監督をすることだ。
運命というものは、時として、とても分かりにくいものだ。
自宅で豚に餌をやっていた少女が一夜にして変わった。でも、人生には自分で道を切り開かなければならないこともある。
当時の張芸謀の「思いとどまり」が、彼女の野望を実現するための努力になった。現在、彼女は大スターというわけではありませんが、彼女の人生には成功体験がすべて詰まっている。

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実は、このコラムを書くまで、魏敏芝のことを完全に忘れていました。あの時のめちゃくちゃやっていた子ども(そういう役柄だったので・・)が、こんなに素敵な人生を歩んでいることを知って、何だかほっこり。

そして、彼女を含め、謀女郎の凄さは、”自分の意思を貫く強さがある”のだなと改めて思いました。それがきっと瞳に現れているんでしょうね。

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