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インドで絶対にインド人を信用するなってインド人が言ってた~インド旅行記10:名前

2010年11月9日15:30 頃
顎のだるさを感じながら、膝に乗せた小さなメモ帳にこの手記を書いていると、私の隣席だという女性が現れた。
中肉中背?すこしふっくらしているかな?ぐらいで顔は色黒の上沼恵美子に似ていた。
ここから彼女を脳内で上沼さんと呼ぶことにする。
日本人か?等の質問の中で私がバラナシに行きたいんだと言うと上沼さんは唐突に
「なぜシンガポールに行かないの?」
と強めに投げかけてきた。面食らった。
「なぜシンガポールに行かないのか」
私は生まれてこの方一度も疑問に持つ事も無く、考えた事も無かった。インドのゴアでそんな問いに出くわすなんて予想もしなかった。
「私はなぜシンガポールに行かないんだろう」
戸惑いつつ考える内に今自分がインドにいる事すら疑う必要がある気がしてきた。
哲学か?なんで私はインドにいるだろう。なぜ私は存在するのだ。
混乱する私の頭には一切入ってこなかったが彼女はシンガポールの素晴らしい点を語り終えたらしい。
上沼さんはシンガポール出身なのだ。
私は、マーライオンと、ゴミを捨てると逮捕される事と、大麻を持つと死刑という三点のみを脳に
「・・・うん、シンガポールはとても素敵なところときくし、行ってみたいよ」
言うと彼女は満足そうに頷いた。

ややあって上沼さんに「サキ!バスが来たよ!」と呼ばれる。
私が店を留守にしキャベツとバターのぬるいサンドイッチを掴まされている間に店主が教えたのか、上沼さんは初対面から「サキ!サキ!」と私の名前を呼んでいた。
私は上沼さんの名前を知らないままである、けれど、ただバスの席が隣なだけ。バスでは大半を眠って過ごす。
上沼さんの本名は知らなくてもいいかな。
そう思っていた。

バスが出発し走り出してしばらくすると上沼さんが三〇秒おきぐらいに
「見て!あそこは私の家の近くよ」
「見て!あれはすごく古い街なの」
と窓の先を指差し教えてくれる。
教えてくれるが景色は「見て!」の時点で通り過ぎている。
残像すらつかめずもう緑、とかオレンジ、とか色しか、それも気のせいレベルでしかわからない。
しかしあまりにも上沼さんは教えてくれる。マンツーマンで教えてくれる。
無視できない。
私はそうなんだ、とか、いい緑色だね、とか古い街が残るのは素敵だと思う、とか、アーハン、とか相槌をうった。

上沼さんはニコニコしていた。
やがて上沼さんの教える事は無くなったのか、二人でぼーっと流れる窓の景色を眺めている内に一度めのサービスエリアに到着した。

サービスエリアとはいってもほったて小屋に駄菓子屋風の売店が並んでいるだけだ。
ジュースの入ったクーラーの冷蔵機能がどうやらちゃんと働いている事に軽く感動し、ゴアでの温いクーラーを思い出していると、足首が痒くなり、見ると蚊に刺されており、一cmほどぷっくり赤くなっていた。
「サキ!こっち!」
痒いなあと足首をかいていると、上沼さんが座っているテーブルに手招かれた。
「蚊に刺されたよ」
「あら〜!クリーム無いの?」
「無い」
「じゃあ水よ!」
水???
「水をぱちぱちしたらいいわ。知らないの?効くわよ、水」
冷やすって事かな、すごく一時的な気がするけど…
疑う私に、効く、効くと強く水をすすめてくる上沼さん、彼女は水を信じ切っていた。水信者だった。
私は冷えたクーラーから水を買い、水信者に言われるとおり患部に水をぱちぱちした。
「どう?」
「あっ…うん、痒くなくなった」
「でしょう!効くのよ〜水は!」

嘘である。私は嘘をついた。
水のひんやりで痒みが消えたのも一瞬で「どう?」ときかれた頃には再び猛烈な痒みを取り戻していた。
しかしうつむく私の顔を「どう?」とわざわざ覗き込んできた上沼さんの表情、真顔に期待を込めた、水の効果を信じて疑わない信者のその透き通った瞳に私は「全然効いてないよ水」とは言えなかった。
効いてない。水は一切痒みに関われていない。
でも上沼さんは得意げで、嬉しそうににこにこしていた。
よかった、にこにこしてる。
だが痒い。めっちゃ痒い。心なしか水でぱちぱちやる前より痒い。
掻き毟りたい。
でもできない。
もう痒くないって言ってしまったから。
ここでばりばり足首をかいたら、上沼さんに、水になんら効果が無い事も私が嘘をついた事もバレてしまう。
それは気まずい。
それに信じていたものが嘘であった時の信者の心境を考えるのも怖い。
ケアできない。
水程度で絶望する事はないだろうが、旅行、旅の道中、できるだけ笑っていて欲しいじゃない…
できるだけ笑っていたいじゃない…
上沼さんの笑顔と引き換えに私は上沼さんの目の前で虫刺されをかくことを禁じた。
大事なのは嘘をついたとか、水で痒くなくなるとか、なくならないとか痒いとか痒くないとかじゃない。よくわからないがこれでいいんだ!いい!
刺されたのは左足首の内側だったので右足をこすり付けてこっそりとかくという技も見出したし!
自分を納得(説得)させながら、上沼さんと再びバスへ戻った。


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