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インドで絶対にインド人を信用するなってインド人が言ってた~インド旅行記11:名前2

2010年11月9日 19:00頃
走るバス内のたった一つのモニターにて映画の上映が始まった。
もちろんインド映画だ。ボリウッドだ。
映画好きの私には嬉しかったが、そのモニターは通路に身を乗り出さなければ見えない位置にあった。身体を斜めにしてようやくマトモに画面が見える。
イヤホンも無く、バス内では全員が喋っており騒がしい、その騒がしさに負けんとする 音量なのでもう正直やかましい。耳を塞ぎたくなる程。
やるならちゃんとやってくれ、無いなら無いでいいんだから、出来無い事を無理しなくていい、おざなりにするならやらなくていいんだからと思っていると
私の前の席の大柄な男がモニターを観るためだろう、身を乗り出した。
はいアウトー。
もう見えるのは男の頭と薄いシャツ生地、そこに浮かび上がる大きな背肉。
なんら変化の無い、たまにバスの震動で揺れるだけの男の背肉に、陽気なインドミュージックが流れてくる。
なにも面白くない。
いやちょっと面白かった10秒程。
秒殺で飽きた。
私に残ったのはインド語と騒音だった。
眠ろう…
窓際の上沼さんははなからモニターが見えないので、既に目を閉じていた。賢明だ。
私も目を閉じた。
しばらくすると映画もクライマックスでアクションシーンが連続したのか
激しい爆音がバス内に轟き始めて思わず目を開けた。
まず、通路を挟んだ向こう隣の男が厚手のタオルをほっかむりのように巻いて、ようにというか完全にほっかむり状態で目を閉じている姿が目に飛び込んできた。
この爆音から耳を覆うように。
その為にしか見えない。その為だろう。
その手があったか、と感心しハッと気付いた。
通路の向こう側、私に見える範囲のインド人は全員ほっかむりスタイルで埋め尽くされていた。
おそるおそる首を伸ばしバス内を見たところ
バスの乗客八割が色とりどりのタオルで耳と頭を覆い目を閉じていた。
圧巻。
なんなのだこの状況。
私の視界を塞いだ大柄な男も目の前でほっかむりして舟を漕いでいる。
彼のタオルは小さかったのかなんかもうキッチキチである。
お前も観ないのかよ………そのタオル…よく結べたね…。
みんな五月蝿いと思っている映画、みんな目を閉じている映画が流れ続けている。
なぜこんな事が起きるのだろう。
誰も観ていない映画を爆音で上映しながら乗客八割のインド人がタオルでほっかむりし眠るバスが走っている。
そこに私も乗っている。
ファンタジーを感じつつ呆然としていると、二度目のサービスエリアに到着した。

2010年11月9日22:00頃
「サキ!行くわよ」
二度目のサービスエリアでは降りずにそのまま眠ろうと思っていたが 上沼さんに誘われてレストランで軽く食べることになった。
空腹をそんなに感じていなかったがインド料理の豆のスープ「ダル」を食べてみたくてこの機会に口をつけてみたかった。 
だが「ダル」は無かった。
有るのは「カレー」と「ベジフライドライス」
がっつりくるなあ…カレーと炒飯か…ダルじゃないスープはあるの?
上沼さんが私の為にあれこれきいてくれたが、スープ類は無い。私はじゃあ要らない、という気分だったがテーブルに座った以上何か注文しないと店員の目もギラギラしていて怖かった。
上沼さんと同じものを注文してくれと頼むと、上沼さんが店員と二言、三言かわしていた。
15分程経ち、店員がマトンカレーとチャパティと切った玉ねぎを運んできた。
すると
「シェアしましょう。私もそんなに食べられないから」
上沼さんはニコニコと言った。
私の要望を察して、気を使ってくれたのだ。
もしかしたら上沼さんがほんとに自分の胃袋具合で決めたのかもしれないが
あれは彼女の気遣いだったと思う。
びっくりしながら、私はありがとうと礼を述べありがたく分けてもらった。
確かに上沼さんは少ししか食べず、カレーの三分の一は余っていた。
食べ終わり、支払いしようと取った伝票をサッと上沼さんが私から奪った。
「え!?」
とっさの事に私は日本語だった。
上沼さんは伝票を握りながら真正面から私を見つめて
「Nothing…OK?Nothiing.」
と呪文のように3回ほど唱えた。
私の抵抗虚しく、上沼さんはがんとして支払いを譲らなかった。玄関先のセールスマンによるしつこいセールスを毅然とした態度で断る主婦の様に立派だった。
威厳すらあった。
私は払いたかった。元来、奢られるのは苦手だった。
人に何かをして貰うと感謝の先に申し訳なさがたってしまう悲しい人間だった。
受け取るのが下手な人間だった。
払いたいし、払えるものだし、現に私は食べたのだから、支払いの義務と権利がある。
けれど何度も問答するうちに、上沼さんの好意を素直に受け取ろうと思った。
「ありがとう、ありがとう」
私は何度も上沼さんに言った
「ありがとう」
が、ありがとう、の次の言葉を言おうとして気付いた。
大げさに聞こえるかも知れないが、私にとっては後頭部を殴られるようなショックだった。
—この人の名前を知らない!—
私はこんな時になって、上沼さんの、彼女の本当の名前を必要としたのだった。
ここまでお読みの方はご存知だろう、バスに乗った時は上沼さんの名前は知らなくていいかな、と思っている私を。
全く他人に興味を持っていない私を。
ご飯を食べさせてもらって、支払いをして貰って、ようやく私は目の前の人物の名前を知りたがった。
自分の心の貧しさが、情けなくて仕方なく、みるみる私は半泣きになっていた。
こんなタイミングで名前をきかれて、名前を今まで知らずにいたことが明らかになって、上沼さんの気持ちはどうだろう。わからない。
でも私は上沼さんの名前を知りたい。
気を害したら。害すかもしれない。
申し訳ない。ごめんなさい。でも、私は目の前の人の名前を知りたい。
あなたにありがとうが言いたい。
私の少し前を歩く上沼さんに蚊の鳴くような声で「Sorry」と言うと上沼さんは、振り返り立ち止まってくれた。
上沼さんは「なんであんた急にそんなテンション低くて泣きそうなの?」と言いたげな目をしていた。 私は言った。
「…あなたの名前はなんていうの?」
上沼さんは一瞬、なんの事かわからないような、すごく不思議そうな、今更何言ってるの?というキョトンとした顔をした後、ニコリと教えてくれた
「マリエラ」
上沼さんは上沼さんではなく、マリエラだった。
「マリエラ、ありがとう」
マリエラはやっぱりニコニコして「どういたしまして」と言った。そうして二人でバスまで並んで歩いて帰った。

こんなに人の名前を欲したのは初めてだった。
今まで当り前の様に自己紹介してきたし、当り前の様に自己紹介されてきた。知りたいと思う前に知っていた。
とりあえずの儀式の様に、初めて会ったら名乗り合っていた。
名乗り合っても忘れてきた名前が幾つもある。目の前にまだいるのに数秒後には忘れた名前が無数にある。
けれど私はもう二度と会う事のないだろうマリエラという名前を一生忘れない。
バスの中で、マリエラは辛いモノが苦手で、レストランのカレーはややスパイシーだった為残していたことがわかった。そうこうしている内に、バスは私の目的地に着き、私はバスを降りた。
バスの窓越しにマリエラを見る。
「マリエラ、バイバイ」
「サキ、バイバイ」
お互い笑って手を振った。マリエラの笑顔をしっかり見ると、私はバスを背に歩き出した。去っていくバスに手を振り続けるのは、なんだか嫌だった。
けれどすぐにマリエラの乗るバスは私を追い越して行った。
あーあまた一人だ。
さーあ一人だ。ペタペタと私のゴムぞうりの音だけになる。
頼りなく見えないように、地面を押さえつけるみたいにしっかりと歩いた。

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